論理思考は大切だが、もっと大切なことがある(3)

2022.07.19

旧聞になりますが、映画監督の河瀬直美氏の発言に批判が集まったことがあります。
撮影現場における河瀬氏のパワハラ疑惑なども、そうした批判に輪をかけたものと思われます。
私は、その話題ではなく、河瀬氏の言葉に関心を持ちました。
以下に引用します。
 
「もし、人間にとって最も重要なことが、すべて論理で説明できるならば、論理だけを教えていれば事足りそうです。ところがそうではない。論理的には説明できないけれども、非常に重要なことというのが山ほどあります」
 
私が、なぜ、河瀬氏の言葉を引用したかはお分かりと思います。
最も論理的な世界は、数学の世界でしょう。
私は、小学生の頃から大学まで、数学が好きでした。
無秩序に思える自然ですら「フィナボッチ数列」のように数学で解析できることに感動すら憶えていました。
 
このように、論理だけで構築されているように思える数学の世界でも、実は「正しいか正しくないかを論理的に判定できない命題が存在する」ということが証明されています。
 
1931年、オーストリアの数学者クルト・ゲーデルは「不完全性定理」をもって「論理で解くことが不可能な命題」を示しました。
原子物理学の世界で、この定理を応用したと言われる「不確定性理論」は、それまで絶対視されてきたアインシュタインの「相対性理論」を論破しました。
本理論は、相対性理論を否定したわけではなく、「相対性理論でも解けない不確定な世界があり、我々の世界は、その不確定な事象の上に成り立っている」という理論です。
 
大学受験までは「ニュートン力学」を絶対視し、大学で「ニュートン力学」は「相対性理論」の限られた一部に過ぎないことに衝撃を受けた私ですが、「不確定性理論」によって、それをも打ち壊されたわけです。
 
このように、この定理は、数学にとどまらず、哲学などにも大きなインパクトを与えました。
どれほど論理を突き詰めていっても「正しさ」を決めることはできない場合があるという考え方は、それまでの考え方を根本から揺さぶりました。
 
有名な問いがあります。
それは、「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いです。
この質問を「論理的に」説明できる人はいないでしょう。
人によって「殺してもいい理由」も「殺してはいけない理由」も、挙げることはできます。
しかし、論理で絶対の正解を導くことは極めて難しいです。
ある著名な評論家はこう言い切りました。
「人を殺してはいけないのは、『駄目だから駄目』ということに尽きます」
つまり、「人を殺してはいけない」のは論理ではないということなのです。
そこで、私は、心の底で、以下のルールを決めました。
「自分の身および『自分が大切に思う人の身』を守る時以外は、決して人を殺さない」
これは、見方によっては「殺人の肯定」になります。
それゆえ、その結果に対しては全面的に責任を取るという覚悟を決めています。
 
こうした、人が“自分で決めた”心の中の規範が「倫理」なのです。
人は、論理で決められないことは、倫理で規範するしかないのです。
かつ、倫理は「自分の心の中だけに存在」するもので、誰にも言う必要はありません。
 
そうすると、学校の授業にあった「倫理社会」という科目に疑問が湧きます。
倫理は自分で決めるもので、学校で教わるものではないからです。