開戦直前の日本政治(6)

2022.04.01

戦前の日本政府は無能だったと言われていますが、近衛内閣も東條内閣も政治戦略機構の改革には熱心でした。
しかし、最大の障害であった憲法改正に手を付けることができずに開戦、そして敗戦の道をたどりました。
 
近衛内閣は1937年、日露戦争後初めての『大本営』を設置しました。
しかし文民であった首相は入れませんでした。
しかも、大本営での会議の大部分は単なる報告で終わったとされています。
結局、日常業務は陸海軍それぞれの役所で行われ、大本営は形骸化しました。
当時、海軍No.2の次官であった山本五十六が期待した『陸海軍共同作戦の最高指導部』も実現することはなく、彼が夢見た政治戦略と軍事戦略の統合はなされませんでした。
山本は、この後、連合艦隊の司令長官に就任しましたが、この人事は降格です。
海軍No.1の海軍大臣であった米内光政は、自分の後の大臣は山本だと考えていました。
しかし、山本の統合案が成らなかったことで海軍内部の反山本派が勢いづき、彼の暗殺計画まであったと言われています。
それを危惧した米内が連合艦隊という「現場」の指揮官に山本を移動させたのです。
山本を現場に置くことで、彼の身柄を保護したというわけです。
しかし、建設会社でいえば副社長から工事本部長へという人事ですから、降格といえるでしょう。
 
その後、1940年の第2次近衛内閣の発足とともに、休眠状態の大本営政府連絡会議が「連絡懇談会」として復活しました。
近衛の後に組閣した東条英機は、首相と陸軍大臣を兼任し、この連絡会議を退陣まで約120回も行いました。
この会議では、世界情勢の分析を始め、東南アジア諸地域の独立支援、船舶の徴用等の兵站整備、造船計画など、多岐に渡る政治・軍事戦略を討議しました。
東條は「権力集中」との批判を覚悟で参謀総長まで兼務しましたが、三役兼務は彼の手に余り、効果を上げることはありませんでした。
東條の能力の無さというより、一番根本の問題を議論することが不可能だったからです。
 
戦前の日本は、憲法により、軍事を動かす「統帥権」は天皇のものとされ、政治権力から分離されていました。
このため、首相といえども軍部への指揮権がなく、内閣の一員である陸軍大臣も参謀本部の作戦計画にはタッチできないというシステムでした。
近衛内閣は、日中戦争を回避するため、政・軍の戦略統合を核とする内閣制度改革を検討していました。
しかし、この改革は天皇の統帥権を犯すものだとして、強硬派はマスコミを使い世論を動かし、憲法改正の議論を封じ込めました。
こうして、日本は否応なしに戦争の泥沼へと引きずり込まれていったのです。
 
現代の日本でも、国会で憲法改正の議論を行うことさえ反対する意見がありますが、戦前と裏返しの硬直化した姿勢です。
日本の法治国家への道は、まだまだ遠いです。