開戦直前の日本政治(4)

2022.02.01


先の戦争を仕掛けた責任者として真っ先に名前が上がるのは東条英機でしょう。
たしかに、開戦当時の首相として彼の責任は免れようもありません。
しかし、彼の経歴を眺めてみると、それほどの人物であるとの印象は受けません。
たしかに、陸軍士官学校から陸軍大学という経歴は、当時としては優秀な部類に入るでしょう。
しかし、卒業時に成績優秀者が天皇から授与される「恩賜(おんし)の軍刀」は受けていませんし、陸軍の勤務でも目立った功績は見当たりません。
2・26事件の直前、陸軍省内で相澤中佐によって惨殺された永田鉄山のような陸軍きっての秀才でもなく、「出来の悪い軍人」との評価もあるくらいです。
満州事変の首謀者とされる石原莞爾(かんじ)は東條とは同年代の陸軍幹部でした。
戦後、戦争責任を問う事情聴取の法務官が石原に「東条と意見が対立していたか?」と尋ねた時、即座に 「違う。意見のない者と意見の対立などない」と言われたくらいの人物だったのです。
ただ、熱烈な天皇信奉者で、米国に対する開戦論者だったと言われています。
 
このように、さして優秀とはいえない東条英機が首相になったのは、内務大臣の木戸幸一(明治の元勲、木戸孝允=桂小五郎の甥にあたる)の工作と言われています。
木戸は東條の対米戦争論に危惧を持っていて、東條を首相にすれば、そうそう軽々しいことは言えなくなるだろうと考えた末の工作だったということです。
この説の信偽は定かではありませんが、あり得る話とは思います。
昭和天皇は開戦には乗り気ではなく、それを知る木戸は、天皇信奉者の東條は天皇の意を汲んで開戦に慎重になるだろうと考えたという説を否定できないからです。
 
長々と書きましたが、東條英樹は、この程度の力量の人物だったのです。
そして、木戸幸一の思惑通り、東條は開戦に踏み切ることはできなかったのです。
しかし、当時のマスメディアが、開戦に踏み切れない東条内閣を「何をぐずぐずしているのか」と連日、激しく煽ったのです。
こうしたマスメディアに煽られた国民の多数の声が東條内閣を開戦へと追い込んだのです。
 
戦前・戦後に関係なく、日本という国は常に上からの強権的圧力よりも下から湧出する民の力の方が強い国なのです。
実際、強力な独裁者と思われている戦国時代の織田信長、豊臣秀吉、徳川家康たち戦国大名が、民の支持を取り付けるために並々ならぬ努力を傾けていたことは、様々な歴史資料から伺えます。
穿った見方かもしれませんが、日本は昔から民が力を持つ「民主国家」だったのです。
 
こうした強い国民の意識を管理することに欠かせないのが官僚組織です。
実際、戦国大名たちが最も腐心したのが、この官僚組織の構成です。
それを軽んじた独断先行型の織田信長が明智光秀の反逆にあったのは当然の結果です。
一方、内政を担当した秀吉の弟、秀長が石田三成や大谷吉継たちを抜擢したことで豊臣政権は早期に盤石となりました。
しかし、その秀長の急死が豊臣政権の凋落につながってしまいました。
そうした二人の先輩の成功と失敗を見た家康は、少数の精鋭だけでなく、広く人材を登用した幕閣と称される官僚組織を造りあげました。
今日にも通じる官僚連合体です。
 
この官僚を操縦するのが政治家ですが、戦前の制度には大きな弱点がありました。
軍隊が内閣の統制下になかったことです。
当時の日本軍は天皇の軍隊であり、天皇の統帥権を盾に内閣の統治の外にあったのです。
それを分かっているから、東条英機は首相職とともに陸軍大臣と参謀総長を兼任したのです。
しかし、彼には、その三役を兼ね備えるだけの力量がありませんでした。
 
これって、現代の中国に酷似していると思いませんか。
習近平国家主席が、党主席とともに軍の最高司令官をも兼務しています。
中国人民解放軍が政府の統制下になく、共産党の軍隊だからです。
ということは、習近平の力量が問題となります。
さて、どうなることやら。