開戦直前の日本政治(1)

2021.11.02


軍拡と国外への挑発を深める中国が、戦前の日本のようだとする意見があります。
たしかにそうだとも言えるし、違うとも言えます。
そこで、戦前の日本を、近代史の事実だけを下敷きに分析してみようと思いました。
これまで本メルマガで述べてきたこととの重複も多いので、軽く読み飛ばす気持ちで数回のお付き合いをお願いします。
 
日本が戦争の泥沼に足を踏み入れたのは、昭和12年(1937年)の盧溝橋(ろこうきょう)事件からだと言われています。
この事件を、日本は当初「北支事変」と呼称しました。
満州と中国との国境付近での小競り合いという扱いでしたが、第一次近衛内閣で「支那事変」と呼称を変えています。
このことから、最初の小さな衝突が本格的な軍事衝突に拡大していったことがわかります。
 
しかし、「戦争」という言葉は太平洋戦争の勃発まで使っていませんでした。
戦争は、双方が宣戦布告を行うという国際慣例があり、日本の場合は、さらに天皇の裁可(聖断と称する)が必要でした。
ところが、昭和天皇は戦争には反対で「不拡大方針」を指示したくらいですし、日中両国とも戦争にはしたくなかった内部事情を抱えていました。
 
盧溝橋事件より前、昭和6年(1931年)に柳条湖(りゅうじょうこ)事件が起き、満州事変へと発展していきましたが、ここが大きな転換点でした。
その半年後に日本は強引に満州国を樹立したことから考えて、この事件は日本軍が仕掛けたものと断定できます。
世界恐慌の後遺症から脱せず、経済が停滞していた日本は、大陸にその活路を見出そうと考えました。
しかし、中国はすでに欧米列強により侵食され、日本が入り込む余地はありませんでした。
そこで、寒冷で不毛の地とされていた東北部(満州)に目を付けました。
そこは、環境があまりにも厳しく、欧米はもちろん、当時の清王朝すら見捨てたような土地でした。
ゆえに、清の支配は及ばず、いくつもの軍閥や馬賊たちが跋扈(ばっこ)する地でした。
清を倒した孫文の辛亥革命の後、蒋介石率いる国民党が中国の覇権を握り、満州国をめぐって日本と衝突しました。
しかし、満州国建国の翌年(昭和8年)、日中両国は塘沽(タンク)協定を結び、戦闘は停止されました。
この協定で、国民党政権は、満州国を黙認したことになりました。
しかし、国民党政権は満州を諦めたわけではなく、国内の共産党勢力を抑え込むことを優先し、その後に、再び日本と戦うという方針でした。
 
そこで、当時の日本外相・広田弘毅は、中国に対し「和協外交」を提唱し、その効果で日中両国は、それぞれの公使館を大使館に格上げしました。
このように、広田弘毅は戦争反対派でしたが、戦後、A級戦犯として文官でただ一人絞首刑となりました。
彼の生き様は、小説やTVドラマなどでも取り上げられましたが、戦犯というより戦争の犠牲者の一人というべきかもしれません。
彼は、他のA級戦犯とともに靖国神社に合祀されましたが、孫の広田弘太郎氏は「広田家は同意していない」と語っています。
戦死者を祀る同神社に、戦死者ではないA級戦犯を合祀した裏に何があったのかは別に論じたいと思いますが、この合祀は行うべきでなかったことは確かです。
 
広田に対しては、戦争反対と言いながら陸軍に妥協してきたという批判もあります。
しかし、当時の陸軍の力を思えば、妥協もやむを得なかったと思います。
東京裁判では、広田の死刑に反対する判事が何人も出て、主席判事のキーナンまでが「広田は終身刑が妥当」と言っていましたが、結果は死刑でした。
東京裁判の闇とも言うべき、この判決の裏もいつかは解明すべき問題だと思います。