これからの近未来経済(5):女性が活躍する社会はいつ来る

2021.04.19


五輪組織委前会長の森氏の発言を機に、日本の女性差別が問題視されています。
「これが日本社会の本質」と発言した経団連の中西会長までもが批判される事態となっています。
中西会長の発言は、女性差別が残る日本社会を問題視した発言だったのでしょうが、言い方が若い世代には通用しなかったようです。
こうした世代間の感覚のズレは、ますます顕著になっていて、これもまた問題です。
 
成熟期に入った日本経済にとって、女性の活躍は欠かせない要素です。
それには、掛け声や標語ではなく、男性中心に作られてきたこれまでの制度や慣習の改革が必要です。
しかし、制度改革はともかく、慣習の改革は、人々の心の中の問題が大きく、簡単ではありません。
私自身、胸に手を当てて考えてみれば、「女性に負けたくない」という感情が強くあったことは否定できません。
「あった」と過去形で書いたのは、小学校時代が特にそうだったからです。
それは、周囲の大人たちから植え付けられた呪縛のようなものでした。
「男たるもの女に負けるなど、あってはならない」という強い圧力です。
ゆえに、成績で女の子に負けることは絶対に許されないのだと自らに課していました。
しかし、中学で初めて負けた時に、その呪縛はあっけなく解けました。
「頑張っても自分より成績が良い女の子がいるんだ」という当たり前のことを実感したからです。
負けた悔しさはなく、心からホッとしたのです。
 
不思議に思うのは、女性に負けた経験をした人は多いはずなのに、女性を男性と同等だとする感情が芽生えない人の多さです。
私なりに、その理由を考えてみました。
結論は「科学的思考」の欠如です。
人間の頭脳の構造からすれば、思考能力に男女の差はありません。
ゆえに、統計学的に考えれば、女性の半数は男性の半数より「頭がよい」となります。
つまり、女性が男性とまったく同等な立場で政治やビジネス社会に参戦すると、男性の半分は女性の下に置かれることになります。
男性には、こうした危機意識が潜在的にあり、女性差別に繋がっているのではないでしょうか。
その上、年配者ほど、周囲から「男は女より優れていて当然」と叩き込まれています。
森さんは、一応陳謝しましたが、本音では「なにが悪いんだ!」と憤慨しているそうです。
おそらく、こうした感情は「死んでも変わらない」でしょう。
このような感情の支配から逃れるためには、中学時代の私のように、早期に「優れた女性」のことを実感する経験が大事なのではないでしょうか。
 
若い頃、仕事した米国のオフィスには、女性がかなりの比率で働いていました。
軍関係の仕事で会った米軍の女性将校などは、その知性、知識、意識にただただ圧倒されました。
しかし、帰国した日本は、相変わらずの前近代的な職場環境でした。
 
あれからかなりの時間が経って、ようやく日本にも活躍する女性が出てきましたが、茶化したり叩かれたりする図式は変わっていないようです。
それも、表面では女性差別を批判するマスコミが、実は最も遅れていると感じます。
若くして実力を発揮する女性が出てくると、週刊誌やNetでは、「美しすぎる・・」とか「○○姫」のような侮蔑的な冠を付ける見出しが目立ちます。
マスコミ人には「社会を変革する先導者たらん」とする気概は無いのでしょうか。
「売れさえすれば、なんでもいい」という姿勢では、近未来の担い手にはなれません。
 
「これからの経済は、女性と若者が引っ張る」と言われて久しいですが、コロナ禍が明けた先にはそうした世界が見えてくるのでしょうか。
世界が180度方向を変える大きな曲がり角は2025年に来ると言われています。
しかし、もしかしたら、その時代は戦争で幕を開けるかもしれません。
でも、女性の活躍が進めば、そうした悲惨な未来は防げるかもしれません。
まだまだ差別は続きますが、女性にはこの厚い壁を打ち破ることを期待します。