近代史を闇の中から引き出すことで、中国の戦略が見えてくる(3)

2021.07.01


日本は、先の大戦を「太平洋戦争」と呼んでいたように、1941年12月の真珠湾攻撃から始まった米国との戦争に焦点を当てて論じる傾向が強いです。
その反面、中国との泥沼の戦争が対米戦争の引き金になったことをそれほど深く考えてこなかったのではないでしょうか。
 
以下に書くことは歴史の授業で習ったと思いますが、時系列に確認する必要があるので、載せます。
「分かってるよ」と言われる方は、読み飛ばしてください。
 
日中戦争は、日本が日清、日露の戦争に勝利したことが伏線になっています。
それまで劣等国だった日本が、中国(清国)、ロシアという大国に勝ったのです。
世界は驚きましたが、それ以上に、この勝利で日本は舞い上がってしまいました。
ここから日本の歯車が狂い出していきました。
 
この両戦争の結果、日本は朝鮮半島や中国の関東州(大連の付近)を支配するという大陸への足がかりを得ました。
この関東州を管轄していたことで「関東軍」と呼ばれていた陸軍部隊の幹部は、本国から離れていることを良いことに中国大陸進出を密かに計画しました。
 
ここで、さらに歴史をさかのぼります。
中国の歴代王朝の首都は、長安や洛陽といった中西部に集中していて、大連がある東北部までは支配が及んでいませんでした。
そこは北方民族である匈奴や契丹などが勢力を持つ中国の“外”でした。
こうした北方民族の侵入を防ぐ目的で造られた万里の長城が北京のすぐ郊外にあることから分かるように、北京のすぐ外は「中国」ではなかったのです。
 
ところが、明朝の滅亡で、中国は北方民族の清により支配されてしまいます。
清は、首都を盛京(瀋陽)から北京に移し、今の中国全土に近い地域を支配下に治めました。
しかし、日清戦争に破れたことを契機に清は急速に衰退し、孫文の辛亥革命を経て、蒋介石率いる国民党政府が政権を樹立しました。
こうした不安定な中国の政情に乗じた関東軍は、日本が敷いた南満州鉄道の線路を爆破(柳条湖事件)、これを国民党の仕業と一方的に決めつけ、一気に東北部一体を占領したのです(満州事変)。
そして、清の皇帝の末裔である「愛新覚羅溥儀」を担ぎ出し、満州国という日本の傀儡政権を建国しました。
関東軍の言い分としては、満州は、もともと清の支配下にあり、正当な皇帝(溥儀)が支配すべきというものでした。(かなり無理筋ですが・・)
 
当然、国民党政府は怒りましたが、毛沢東率いる中国共産党(八路軍)との激しい内戦を戦っていて、満州に関わる余裕はありませんでした。
むしろ、共産党軍との戦闘を有利に進めるため、蒋介石は日本との関係維持を優先し、満州国の存在は黙認していました。
 
一方、関東軍も一枚岩とは言い難い状況にあり、幹部たちの思惑も異なっていました。
完全な日本領土にしようとする者、己の利権にと考える者など、いろいろでした。
その中に関東軍の作戦参謀であった石原莞爾という人物がいました。
石原は満州国建国の首謀者とされていますが、彼は満州国を日本からも離し、真の独立国とする野望を抱いていました。
いわゆる「五族協和(漢、満州、朝鮮、モンゴル、日本)」による「王道楽土」の建設という思想です。
まあ、夢想とも言える思想ですが、当時は、大真面目に語られていたのです。
 
実は、毛沢東も内戦を有利に進めるため、関東軍の一派と密かに手を結んでいました。
この続きは次号で。