韓国の歴史を学ぶ(その2)

2017.10.03


朝鮮半島は、西暦918年~1392年の間、高麗(コリョ)王朝の支配下にありましたが、1270年頃からは中国に台頭した元帝国に隷属する属国になっていました。
テレビ東京で放映していた「奇皇后~ふたつの愛 涙の誓い~」は、この時代のドラマですから、観られていた方もいたのでは・・。
ちなみに、主人公の奇皇后は実在の人物で、元に貢物として贈られた女性です。
彼女は持ち前の才覚と美貌で元皇帝の皇后にまで上り詰めましたが、その背景には中国に隷属してきた朝鮮の屈辱の歴史があるわけです。
その高麗王朝ですが、軍人だった李成桂という男に倒されてしまいます。
李成桂はすぐに中国(この頃は明)に使者を送り皇帝に国名を選んでもらいました。
つまり、いつの時代も朝鮮の王は中国皇帝に認めてもらう必要があったのです。
ともかく、こうして出来た王朝が「朝鮮」という国で、李成桂の名を取って「李氏朝鮮」とも言われました。
李氏朝鮮は、それから20世紀初頭まで、約500年も続きました。
その間、日本では、室町時代から戦国を経て江戸時代へと時代が流れていますから、李氏朝鮮は長く続いたものです。
19世紀末、日本にペリー提督率いる黒船が現れ、太平の平和は崩れていきました。
その前から、近代化された軍事力の西欧列強の前にアジアはどんどん侵略され、大国であった清國も阿片戦争で血祭りにあげられ、日本や朝鮮も風前の灯火の状態でした。
当初、日本では外国人は国に入れるなという「攘夷論」が大勢でしたが、下関戦争、薩英戦争の惨敗で目が覚め「このままでは欧米の植民地にされる」との危機感から、欧米流の中央集権国家になるべく明治政府に移行しました。
我々は学校で「薩摩と長州が手を組み幕府を倒した」と習いましたが、これは間違った教育でした。
実際は、徳川幕府が天皇を中心とした国家への衣替えを決断したのです。
確かに、鳥羽伏見の戦いや会津藩の悲劇等がありましたが、あれは手違いや一部の陰謀に踊らされた結果で、幕府はその戦力の大半を投入することなく政権を明け渡したのです。
これを主導したのが、幕府の老中筆頭であった阿部正弘であり、後を継いだ大老井伊直弼だったのです。
阿部正弘は激務が祟り39才の若さでこの世を去り、井伊直弼はご存知、桜田門外の変により44才の若さで生涯を終えています。
でも、彼らの奮闘がなければ今の日本はなかったかもしれないのです。
話が朝鮮から外れましたが、当時の日本政府は、西洋の軍事力に対抗するため、隣の朝鮮と同盟を結ぶべく1868年、李氏朝鮮に使者を送りました。
圧倒的な軍事力の差を痛感していた日本は、少しでも仲間が欲しかったし、また朝鮮が西欧に占領されてしまえば、自国防衛も難しくなるので、なんとしても朝鮮と同盟を結びたかったのです。
ところが朝鮮は、なんと天皇の親書の受取りを拒否したのです。
理由はこうです。
朝鮮から見ると、中国は格上、日本は格下(中国と国境を接していないから)、さらに西洋人は「夷狄」として野蛮人扱いなのです。
日本は、その野蛮人と“中国の許しも朝鮮への説明もなく”外交条約を結び、あろうことか中華皇帝以外に使用が許されない「皇」の字が入った親書を持ってきたのです。
「こんなもの受け取れるか」となって突き返したのです。
日本は、中華皇帝体制の外に位置し、独自の天皇を頂く完全な独立国家ですから「皇」の字を使うことは当たり前です。
しかし、李氏朝鮮は、他国を平等に見ることもなく、自分たちの一方的な思い込みのため、交渉のテーブルに着くことさえ拒否したのです。
その朝鮮が、その後どうなったかは、誰もが知るところです。
なにやら、現在の韓国も一緒に思えてきませんか。
自国の歴史をまっとうな目で見られない悲劇は今も続いているのです。
次回は、日韓併合の話をしましょう。