戦争と平和 (その2)

2015.02.17

~前号で、戦争と平和は「軍事コストの比較で決まる」という話をした。
軍拡のコストと戦争のコストを比較すれば、明らかに戦争のコストのほうが高い。
ゆえに、「戦争にならないようにする軍拡」が、リスク管理面からみた合理的選択となる。

勿論、こうした結論は、「絶対平和」を志向する方々からは批判されるであろう。
「とにかく軍拡は悪」と考えるからである。
そう、確かに「軍拡は悪」である。
では、「戦争を辞さない国家」に対して「軍拡をしない」という政策で対抗し得るのか。
そこを歴史上の事実から考えてみよう。

有史以来、第一次世界大戦までは、ほとんどの国家が侵略国家であった。
侵略によって自国を繁栄させることは、その国にとって「善」だったからである。
反対に、侵略される国は弱いからであって、弱さは、その国にとって「悪」だったのである。

日本国の内部でも、東北の蝦夷(えみし)は、武力の差で侵略してきた大和朝廷に滅ぼされた。
結果、大和朝廷が「善」で、蝦夷は「悪」とする歴史が書かれてきた。
蝦夷を意味する「夷(い)」は、悪の代名詞として、その後も長く使われてきた。
幕末時代、欧米を「夷狄(いてき)」と呼び、彼らを追い払う「攘夷(じょうい)」
という言葉は「悪を滅ぼす」という意味であった。
弱さは、まさに「悪」であったのである。

しかし、第1次世界大戦は、それまでの戦争の常識を覆した。
戦勝国といえども、非戦闘員である国民に多くの死傷者を出し、国家はボロボロになってしまった。
ごく一部の国を除いて・・。
そして、その国だけが利益を貪(むさぼ)れた。
そう、アメリカと日本である。

戦場となったヨーロッパの国民は、戦争を「悪」と考えるようになったが、戦争の災禍と無縁だったアメリカと日本の国民だけは、戦争を「悪」とは考えなかった。
そして、両国の国民は「戦争するための軍拡」を「善」と考え、支持したのである。

日本国民は、米国との戦争に破れたことで、ようやく戦争を「悪」と考えるようになった。
米国国民の一部も、ベトナム戦争の敗北で戦争を「悪」と考えるようになったが、未だに国民の多くは「悪」とは捉えていない。

だが、第1次世界大戦で、戦争が「悪」と理解したはずのヨーロッパの国民の考えも浅かった。
戦争の責任を敗戦国のドイツだけに押し付け、多額の賠償金を課し、ドイツ国民の労働の果実を全て奪い取ったのである。
その結果、ナチスの台頭を許し、第二次世界大戦への道を開いてしまった。
二度の大戦を経て、ヨーロッパの国民は、ようやく戦争の愚かさに気がついた。
しかし、それでも武器を捨てることはできなかった。
彼らの外側に、戦争を「悪」とは認識しない強大な国家があったからである。

戦後の侵略国家は、明らかにロシア(旧ソ連を含む)と中国である。
ハンガリー、ポーランド、アフガニスタン、そしてウクライナと、ロシアは今に至るまで侵略を繰り返している。

中国だって負けていない。
チベット、ウイグル、インド、ベトナム、フィリピンと、武力行使し放題である。
今でも、公海である南シナ海を武力で「中国の海」に変えようとしている。
さらに、尖閣を狙い、台湾への武力侵攻だって諦めてはいない。
アジアが平和にならない大きな要因の一つが、中国の覇権主義にあることは明白である。

こうした大国の侵略に対し、力の弱い国が採るべき政策は2つしかない。
次回へ続く。