日本の8月

2026.08.17


日本の8月は、6日と9日の原爆投下、10日の東京大空襲、そして15日の終戦と、毎年、辛い記憶が語られる月です。
しかし、今や、私を含めた国民の多くにとっては生まれる前の話であり、リアル感が薄いのではないでしょうか。
もちろん、直接に戦争の災禍を経験した親族や知人などから話を聞いた方は多いでしょう。
しかし、それすら、今後数世代を経ていけば、単なる歴史のひとこまとなり、現実味が無くなっていくことは確実です。
現代人が、江戸時代や戦国時代、それ以前の歴史を考えるときのようにです。
 
初めて原爆ドームの前に立ったのは20代ですが、そのときに受けた衝撃は今も残っています。
見上げた原爆ドームは、修復もされず被爆当時の姿のままだったからです。
あの場所が、昭和20年8月6日で時が止まったままだったからです。
しかし、次に訪れたときは、はっきりと修復の後が分かりました。
その瞬間、昭和20年で止まったままだったあの場所の時間は、現代へと一気に進んでしまいました。
 
それ以降、何度も同じ場所に立ってきましたが、その度に感じる衝撃は薄くなってきています。
おそらく、何世代も経った後の子孫は、何も感じないだろうという思いがしています。
そして、そのことを「悪い」とは言えません。
 
「おまえは、なんという“人で無し”だ」とお叱りを受けることを覚悟で言います。
我々旧世代の者が、これからの若い方々に自分たちの価値観を押し付けることは間違っています。
自分の子供たちや若い方々には「感情ではなく、事実としてだけ受け止めよ」と言いたいです。
 
もちろん、日本が、広島・長崎の惨禍を訴えることを「意味がない」とは言いません。
ですが、今も世界各地で悲惨な戦争が続き、犠牲者が無くなることはありません。
核の使用は、今のところ、ぎりぎりで自制されています。
これを「広島・長崎の悲劇があったから」と主張することは、もちろん出来ます。
しかし、本当にそうでしょうか。
 
確かに、広島・長崎が核使用の歯止めになっていることを否定はしません。
原爆資料館を訪れた世界の要人たちは、例外なしに、被害の凄まじさや悲惨さに息をのみ、平和への言葉を残しています。
しかし、核廃絶への歩みが進む気配はまったくありません。
 
冷静に世界政治の現実を考えれば、核戦争を防いでいるのは互いの核兵器保有です。
防ぐことが難しい兵器を互いが持っていることが戦争を防いでいるのです。
だから、核兵器を持っていない国が持とうとすると、米国は攻撃して潰します。
米国の力をもってしても防げない危険が増えるからです。
かつてのイラク、現代のイランに対する軍事攻撃は、その典型です。
反対に、既に保有してしまった、インド、パキスタン、北朝鮮には、まったく手が出せません。
 
感情で非核を訴えるより、論理で使わせない策を練るしか道はないのです。