ホンダと日産の経営統合:2人の桜井さん(前半)

2025.01.06


その昔、車が若者には高値の花だった時代から、車は私にとって「相棒」のような存在でした。
といっても、金持ちのボンボンだったわけではありません。
むしろ家庭が貧しかったゆえの所有でした。
私は、子供の頃から模型作りに熱中していましたから、「動く模型」の代表のような自動車に興味を持つのは自然の成り行きでした。
そして、アルバイトでおカネを貯め、知り合いから廃車寸前の中古車を買いました。
車があるとアルバイトの幅が広がり、かつバイト代も高くなるので、それが購入の目的でした。
 
ここで、時代を少し遡ります。
1963年、鈴鹿サーキットで「第1回日本グランプリ」という初の自動車レースが開催されました。
このとき、プリンス自動車工業は初代スカイラインで参戦しましたが、8位に終わっています。
このスカイラインの開発主幹が桜井眞一郎でした。
当時、日本にはまともな自動車会社はなく、彼は最初、ゼネコンの清水建設に入社しました。
機械部に所属した彼は才能を発揮して重機の整備や改良に成果を発揮したと言われています。
会社からは高く評価されていましたが、「たま自動車(のちのプリンス自動車工業)」が創業すると、躊躇なく転職しました。
そして、開発したスカイラインでレースに参戦したのですが、一般向けでレース用の改造もされていない車でしたから惨敗も当然でした。
 
初戦のレースで惨敗したスカイラインでしたが、翌年の1964年のレースでは日本中がびっくりすることが起きました。
主催者は、レースを盛り上げるためドイツからポルシェを呼びました。
現代でもスーパーカーの代名詞であるポルシェです。
プリンス自動車は、レース用にパワーアップしたスカイラインGT(通称スカG)で参戦しましたが、誰もがポルシェの圧勝を疑っていませんでした。
 
ところがレースが始まると、観客もTVを観ていた誰もが自分の目を疑いました。
なんと、スカGがポルシェとデッドヒートを繰り広げたのです。
最終的にはポルシェが優勝しましたが、途中、スカGが先行する場面もあり、惜しくも2位でフィニッシュしました。
桜井眞一郎がスカイラインをGTというスポーツモデルに大変身させた成果でした。
夢でも見ることのなかった結果に、当時の車好きの若者は「いつかはスカG」という熱病にかかったのでした。
それから2年後の1966年にプリンスは日産自動車に吸収されました。
以降、桜井眞一郎とスカイラインGTは、「技術の日産」としての看板になったのです。
 
私は、社会人となった翌年、念願のスカGのオーナーとなり、以降7代目まで全モデルの買い替えを続けました。
しかし、桜井眞一郎は、7代目の設計を最後に、日産を離れました。
私も、そこで日産車から離れました。
桜井眞一郎を失ったスカGはファミリーカーになってしまったからです。
そのとき「技術の日産」は終わったのです。
そのことに気付けなかった日産の歴代の経営陣が今日の衰退を招いたのです。
 
どんなに高い山でも山頂に達すれば、次は下りしかありません。
だから登山家は、別の山のさらなる高みや、より困難なルートに挑み続けるのです。
企業も同じです。
日産がそのことを怠ったわけではないでしょうが、既存ユーザーを置き去りに、EVや自動運転車という“怪しい”山に挑んだことが間違いでした。
ハイブリット技術は日産が生み出さなければならなかった技術ですが、道を誤りました。
このように、技術面においてもトヨタの後塵を拝し続ける日産に未来はないのです。
 
次回の後半は、ホンダの「もうひとり」の桜井さんのことを述べます。