ホンダと日産の経営統合:2人の桜井さん(後半)

2025.02.03


「もう一人の桜井さん」とは、ホンダの桜井淑敏(よしとし)さんです。
前号の桜井眞一郎氏は、当時10代の私にとって技術者としてあこがれ続けた人でした。
それに対し、ホンダの桜井さんは、深夜まで酒を酌み交わしたこともある方なので、“さん”付けで呼ばせてもらいます。
 
1964年の「第2回日本グランプリ」で桜井眞一郎氏設計のスカイライン2000GTがポルシェとデッドヒートを演じてから20年後の1984年、桜井さんはホンダの研究所でエンジン開発部門のマネジメントをしていましたが、F1との直接の関わりはありませんでした。
そこに、上司の川本信彦氏(後に第4代社長となる方です)から突然「お前ちょっとF1の現地に行って様子を見てこい」と言われ、そのままF1プロジェクトに関わるようになったということです。
 
かくして、ホンダF1チームの総監督になった桜井さんですが、当時は「TAGポルシェ」のターボエンジンが圧倒的に強い時期で、ホンダはまったく勝負になりませんでした。
桜井さんは「どうしたら良いのか、まったく分からず」で「お先真っ暗」だったと言っておられます。
 
しかし、目的達成のためには「発想を根こそぎ変えられる」のが桜井さんの真骨頂です。
今では当たり前になっていますが、F1の他チームがどこも導入していなかった「テレメトリーシステム(走行中のマシンデータをピットからモニタリングできるシステム)」やコンピュータによるレースマネジメントシステムの採用で、チームのスタッフ全員の「事実情報の共有化」を実現し、ついにF1の「コンストラクターズチャンピオン」および「ドライバーズチャンピオン」の2冠達成で、その頂点に上り詰めました。
 
私が桜井さんと知己を得たのは、桜井さんがホンダF1総監督も本田技術研究所の取締役も退任された後ですが、伝説のF1レーサー、アイルトン・セナがレース中の事故で亡くなった余波がまだ続いていた頃でした。
セナにとって、桜井さんは家族以外で一番親しい友であったと思います。
そのセナの事故死について、桜井さんは、「ホンダが、つまり私がF1から撤退したせいだ」と私に繰り返し話し、時に言葉に詰まることもありました。
桜井さんとセナが真剣に会話しているプライベートビデオを見ながら、夜遅くまで話し合ったことが、つい昨日のことのようです。
桜井さんの著書にセナに関する著述が多いことからも、二人は親友を通り越して、まさに戦友だったことが分かります。
それだけにセナの死は、桜井さんにとって癒しきれない心の傷となっていることが感じられました。
当時は創業から数年の未熟な経営者であった私に、桜井さんの話は経営のバイブルの一つとなりました。
お互いにアルコールが入っていましたので、話は熱を帯び、ここには書けない凄い話も満載でした。
また、世界最高峰のF1レースの裏側の世界の話も、たっぷりと聞くことができました。
桜井さんから聞いた生前のセナの凄さやF1レースの裏話は、いつか、本メルマガでも取り上げたいテーマの一つです。
 
時は流れ、夢中で仕事をしているうちに、わが社もまもなく35期目に入ります。
創業から30年を生き延びられる会社は1000社に2~3社と聞きます。
こんな数字を最初に聞いていたら、絶対に創業はしていませんね。
「聞かない方が良い数字もあるんだな」と、今ではつくづく思います。
 
2回に渡って取り上げた2人の桜井さんは、技術者の端くれとして、今でも深く尊敬するお二人です。
昨今、新入社員を採ろうと大手企業が30万、35万と初任給を釣り上げてきています。
しかし、断言します。
カネに釣られて就職先を決める若者に、未来を切り開く力はありません。
2人の桜井さんは、ただただ車が好きでたまらず、最高の車を作りたい一心で職場を選んだ人です。
比べるべくもありませんが、私もそうでした。
給料なんかどうでも良く、全力で取り組める仕事のチャンスをくれることが会社を選ぶ唯一の選択基準でした。
初任給の高騰に釣られそうな若者に言いたいです。
カネは、自分が全力で取り組み、上げた成果についてきます。
自分の中にある「挑戦したい」という気持ちで企業を選んでください。
そして、2026年から始まる新たな時代に花開く将来の“桜井さん”を目指してください。