戦争と平和(その9):日本の採るべき道
2015.08.15
前節で述べた「中国の夢」に対し、今後、日本はどのような戦略を練っていくべきなのかを解説する。
日本国内では、集団的自衛権によって日本が戦争に巻き込まれる恐れが強くなったといって反対論が根強い。
それはその通りである。
しかし、一方で、集団的自衛権によって東シナ海同様、南シナ海においても中国が戦争を仕掛けられなくなったとも言える。
つまり、集団的自衛権で日本の危険は増すが、アジアの平和には寄与できるということである。
問われているのは、これからの日本の姿勢である。
日本は、これまで通りの「一国平和主義」に閉じこもるべきなのか、それとも、アジア(ひいては世界)の平和への寄与を重んじていくべきなのかの分水嶺に立っているのである。
そして、安保法案への反対は、「一国平和主義」に閉じこもる道の選択なのである。
一方の安保法案への賛成は、それはそれで厳しい道である。
かつての大戦へと進んでしまった苦い過去を反省し、そうならないための政治の仕組みおよび国民の啓蒙が必要であろう。
苦い過去を反省する上で、最も重要な要素は、次の三点である。
第一に、中国との経済および人的交流を増やし、両国を運命共同体に持っていくこと。
これが戦争の危険を緩和する方策であることは、誰でも分かるであろう。
第二に、国家人事を硬直させないこと。
かつての戦争を導いたのは、ほんの一握りの軍人たちであった。
それも、主役はわずか4~5名の中堅将校(大佐、中佐クラス)である事実に驚かされる。
エリート主義、年功主義の軍部人事と、それを防ぐべき国家機構が未熟であったことが主たる原因である。
残念ながら、今の日本人の大半は、このことが分かっていない。
単に「戦前の日本は悪かった」で終わって、それ以上深く考えようとしない。
その結果、この人事硬直の反省もなく、A級戦犯に全ての罪をかぶせ、終わらせてしまった。
かの戦争と同じ轍を踏む危険は、戦前と同様にあると言わざるを得ない。
そして、第三は、戦争の仕方を学ぶことである。
誤解しないでいただきたいのは、「戦争の仕方」とは「実力行使の仕方」ではない。
「戦争を回避する仕方」である。
その核になるのは、情報収集能力と情報分析能力にある。
したがって、この2つの能力を磨き抜き、実効を上げることである。
軍事的実力行使は、本当に最期の手段として、「いつでも可能」と相手に思わせておくことが肝要である。
私は、安保法案に賛成の立場であるが、日本が上記の三点を確実に実行できるかについては、はなはだ疑問に感じている。
ならば、法案に反対するのが筋なのだが、以下のように考えたのである。
停滞するより、前進すべきである。
故に、「やってみれば良い」。
やって、ダメだったら、変えれば良い。
民主主義国家は、やってみるリスクが少ないことが最大の利点なのだ。
反対勢力が、安倍首相を独裁者呼ばわりすることは間違えている。
国民は、いつでも首相の首をすげ替えることが可能だから。
絶対反対派が覇権を握るほうがよほど怖いと思う。