韓国の歴史を学ぶ(その3)

2017.11.10


前回お話ししたように、欧米列強からの侵略に対抗するため、明治政府は朝鮮との同盟を望んだのですが、日本を見下していた朝鮮側の拒否により交渉のテーブルに着くことすらかないませんでした。
なにやら現代も変わりませんね。
その時、日本国内に巻き起こったのが、朝鮮を武力で従わせようとする「征韓論」です。
我々は、学校の歴史の授業で「西郷隆盛が征韓論を唱え・・」と教わりましたが、事実は逆です。
当時、参議であった西郷隆盛は武力行使反対派で、自分が全権大使として朝鮮を説得して平和的に同盟を結ぶと主張したのです。
(我々の受けた教育も”いい加減”なウソが多いですね)
しかし、日本国内の政変で西郷は野に下り、西郷の朝鮮派遣は実現しませんでした。
その後、日朝両国は、互いにいろいろあった末、ようやく「日朝修好条規」という条約の締結に至りました。
この条約は、たしかに朝鮮には不利な不平等条約でしたが、この当時の条約はみな、その時の力関係で内容が決まる不平等条約でした。
それより、注目すべきは、この条約の第一条です。
そこには、「朝鮮は自主の国であり、日本と平等の権利を有する国家と認める」と、朝鮮が独立国家であることを謳(うた)っていました。
日本は、この修好条規締結の前に、清國との間に“両国が対等である”事を確認した「日清修好条規」を結んでいました。
日本の意図は、「日本、清國、朝鮮は互いに対等関係である」として、清國の臣下となっていた朝鮮を独立させることにあったのです。
その後も紆余曲折がありましたが、とにかく朝鮮は清國のくびきを離れた独立国家としての一歩を踏み出したのです。
ただし、外交に善意などあるわけはありません。
日本は善意で朝鮮の独立を助けたわけではありません。
日本だって出来たての新米国家で、自国防衛すら危うい状態でした。
隣の朝鮮が清國の手先であることがどれほど危険であるかを考えた末の独立支援だったわけです。
それゆえ、日本はその後も朝鮮の「自主独立派」を援助して、清國からの完全独立を後押ししたのですが、朝鮮という国は“内紛がお家芸”のやっかいな国です。
日本に後押しされ、近代国家になろうとする独立派に対抗して、従来どおりの清國の保護体制を維持しようとする守旧派がクーデターを起こし、一転して独立派が窮地に陥ったのです。
当然のように、独立派は外国勢力に助けを求めたのですが、この相手が”びっくり”です。
普通に考えれば、独立を支援している日本に助けを求めるはずですが、この時の独立派の頭目である皇后閔妃(ミンビ)は、清國の将軍・袁世凱に助けを求めたのです。
その結果、守旧派(つまり親清派)でクーデターを起こした大院君(国王の父)は捕らえられ、閔妃が覇権を握りました。
もうめちゃくちゃですね。
整理すると、閔妃はもともと日本寄りの「独立派」で、清國派の「守旧派」に対抗していたわけです。
それが、一夜にして清國の軍人である袁世凱と手を結んだのです。つまり、別の親清派に転向したというわけです。
そこには、国家国民のことなど眼中になく、ただ己の権力欲があるだけです。
こうした考え方は、日本人には理解しがたいところがありますが、裏切りと事大主義思想(大きいものは小さいものより上という考え)に染まっている朝鮮にとっては当たり前のことなのです。
(今でも、財閥企業は中小企業より上という考え方は変わっていませんね)
また、袁世凱は、日本の歴史にも登場する将軍ですから名前を知っておられ方も多いでしょう。
当時の中国は中央国家の力が衰え、周辺地区は地区司令官である将軍たちの独立国家のような様相になっていました。いわゆる「軍閥」です。
袁世凱はこうした北方地区の軍閥の一人でしたが、強大な軍事力を背景に後の満州地区一帯を支配していました。
袁世凱にとって、閔妃からの救援要請は、朝鮮を牛耳る、またとない機会で、舌なめずりをして出兵したのです。
結局、一番割を食ったのは日本で、朝鮮独立のために援助し続けてきたのに、簡単に裏切られてしまったのです。
(これも、「今と同じじゃない」と思った方も多いでしょうね)
さて、次回は、ここから日清戦争に至るまでの朝鮮の歴史をお話ししましょう。
日清戦争は、日本と清國の戦争ですが、内実は朝鮮内部の紛争が原因だったのです。