イスラム国とイスラム教 (1)
2015.02.17
最近、「イスラム国」なる呼称をやめようと、政府もマスコミも“IS”とか“ISIS”とかの呼称(?)を使い出しているが、遅きに失したと言わざるを得ない。
好むと好まざるとにかかわらず、「イスラム国」なる呼称はすでに定着してしまっている。
今となっては、なんと呼ぼうと、彼らの宣伝にしかならない。
第1ラウンドは、彼らの圧勝といえる状態である。
人質殺害は痛ましいことだが、報道がそちらにばかり目を向ける裏で、それよりはるかに多い一般市民が、日夜犠牲になっている。
欧米諸国や日本は、もっと冷静な対応や報道が必要なのではないか。
たとえば、なぜ彼らは「斬首」や「火あぶり」のような残忍な殺害手段を使うのか。
考えたことがあるか。
それは、マスコミ受けするからであり、映像を見た人が激しい衝撃を受けるからである。
つまり、世界中の関心を彼らに引きつける効果を狙っているのである。
彼らの中に、人間心理を操る知識や手段に長けた者がいるのであろう。
いわば「広報」の天才が存在している。
かつて、そのような男がいて、世界を戦争のうずに巻き込み、ホロコーストを引き起こした。
そう、ナチスの宣伝相ヨーゼフ・ゲッペルスである。
勿論、「イスラム国」なる組織に、実際にゲッペルスのような人物がいるかどうかは定かではない。
だが、世界が彼らに踊らされ、彼らの映像を垂れ流し、世界中から彼らの戦闘員を集める宣伝の役目を果たし、人質をカネに替える手伝いをしているのである。
最初に、かれらを「イスラム国」と呼んだ時点で、彼らの術中にはまったのである。
今さら呼称うんぬんではなく、実質的に彼らの組織を壊滅させるために何をするかが大事なのである。
具体的には、資金源を絶つことと、武力を削ぐことである。
それには、国際的な結束と包囲網の形成、犠牲が出てもひるまない政治の姿勢が必要である。
もう一つ、書きにくいことであるが、一神教という宗教のやっかいさがある。
ユダヤ教から始まり、キリスト教、イスラム教と続く道は、一本の道である。
つまり、同じ神を抱く一神教なのである。
それぞれの神、「アドナイ」、「ゴッド」、「アラー」は、全て同一の神であり、正しくは「ヤハウェ」と呼ぶ。
しかし、人間と神との最初の契約「モーゼの十戒」によって、神の名をみだりに唱えてはならないと定められ、「ヤハウェ」という呼称はめったに使われることはない。
このように、ユダヤ教もキリスト教もイスラム教も、同じ神を崇めているのだが、2000年の昔から争ってばかりいる。
どうしてか。
以下の解釈が違うからである。
ユダヤ教は、イエスやムハンマド(マホメット)を認めていない。
キリスト教は、イエスを神の子としているが、ムハンマドを認めていない。
イスラム教は、イエスを神の子としては認めていないが、ムハンマドと同じ預言者としている。
かつ、ムハンマドは「最後の預言者」として別格扱いしている。
大雑把すぎる解釈であるが、少なくともそれぞれの信者たちは、こう思っているようである。
長くなるので、このコラムも「次回に続く」とします。