近代史を闇の中から引き出すことで、中国の戦略が見えてくる(2)
2021.06.01
「太平洋戦争は日本が始めた侵略戦争」との認識は日本国民の意識の中に深く浸透してしまっています。
その意識が中国や韓国に利用され、日本を貶める国際世論つくりに使われています。
そうした工作への対処に外務省がまったく無気力なことが問題ですが、最も有効な策は、国民が戦後封印されてきた近代史の事実を知ることです。
いくつかの書籍や言論人の活動によって、少しずつ、そうした意見が出てきていますが、過剰に陰謀論を語るものが多いのも事実です。
私は、自分のこれまでの知見や信頼できる情報と照合して、整合が取れるものだけを取り上げるというフィルターを通し真実から遠い意見を排除するようにしています。
米国は、重要な外交文書でも50年後に開示することを定めています。
とはいえ、あの戦争当時の外交文書は膨大な量です。
どうしても開示は遅れがちになります。
それでも、こうした策もない日本の外交能力はお寒い限りです。
米国のこうした公開資料から分かることは、当時のソ連の工作の巧みさです。
当時のソ連は、日米を戦争させ漁夫の利を得ることを画策していました。
それも、日露戦争の敗戦で失った領土の回復というソ連側の大義名分を考えれば、ソ連が悪いと言うつもりはありません。
それが外交力の一面なのですから。
ソ連は、当時の米国政権の中枢部の要人までも抱き込んでいました。
彼らがやり取りしていた暗号電文を米英の情報機関が共同で解読した文書が残っています。
この「ヴェノナ文書」と名付けられた文書も公開されましたが、それによると当時のフランクリン・ルーズベルト大統領の側近までがソ連の工作員だったとされています。
1941年11月、開戦前夜に届いたハル・ノートは、日本の権益を全否定した内容で、到底日本が受け入れられる内容ではなく、日本を戦争に引きずり込む最後通牒でした。
ハル・ノートには、日本が一番気にしていた「国体の護持(つまり天皇制の維持)」についての記述がありませんでした。
そこで、水面下で、そのことの保証を米国に打診しましたが、返答はありませんでした。
そのまま戦争に突入し、1945年7月、終戦間際にポツダム宣言の草案が日本に届いたのですが、そこにも、日本が一番気にかけていた「国体の護持」に関する記述はありませんでした。
ただ、それを匂わせる文言があったと言われています。
(この草案、今では失われているようです)
それで、日本は宣言を受け入れることを決意したのですが、最終的に届いた宣言文書から、その文言は消えていたということです。
日本は、「かつてのハル・ノートに対するこちらの質問に対する答えは?」と再度打診しましたが、やはり黙殺されたままでした。
それで、日本は本土決戦を決意し、原爆を落とされましたが、それでも降伏という選択はしませんでした。
ソ連参戦があっても、日本は降伏する意志を示さなかったので、米国は、スエーデンを通じて、かつての「ハル・ノート」に対する日本の質問への回答を寄せました。
それが「国体の護持は、終戦後の日本国民の意志に委ねる」というものでした。これで終戦が決まったわけです。
この「ハル・ノート」の起草者もソ連の工作員だったことが今では分かっています。
この段階で終戦になったのでは漁夫の利を得ることが難しくなると判断したスターリンの命令だったことは確実です。
もし、ここで戦争が終わっていれば、広島も長崎もなく、満州での悲劇もなかったのです。
開戦前から、ソ連はキリスト教団体やヘレン・ケラーなどの社会的信用の高いリベラル派知識人を使って、米世論を対日開戦へと誘導していました。
この頃、米国の新聞には「日本は天皇ヒロヒトをホワイトハウスの椅子に座らせようとしている」との記事まで出ましたが、こうした工作の結果だったわけです。
いつの時代でも、リベラル派知識人は戦争への引き金を引くことに利用されてきました。
歴史の事実が証明していることです。
ソ連は、こうした米国の世論誘導と政府工作で日米開戦を仕掛けていったのです。
思惑通り、ソ連は、最後の最後(8月9日)に対日参戦して、大きな漁夫の利を得たのです。
北方領土は、そのことを前提に考えなくてはならない象徴なのです。
だからといって、私は「ソ連が悪者」と断じるつもりはありません。
それが外交ですから、踊らされた(ふりをした可能性も高い)米国はともかく、子供のような幼稚な思考で冷徹な戦略を組めなかった日本が悪いのです。
さて、現代の最大の問題は対中国です。
そのことは来月解説するとします。