戦争と平和(その12):戦争は平和より強し?

2015.10.15

多くの人は「平和を望んでいる」と言いながら、「戦う」という言葉を気楽に使っている。
マスコミも、煩雑に「受験戦争」とか「選挙に出陣」とかの言葉を好んで使う。
我々も、違和感なく戦争用語、軍隊用語を使っている。

それに比べて「平和」という言葉は、普段はあまり使わないのではないか。
いや、使うことに抵抗を覚えるのではないかとすら思う。
会社の会議で、「今度のプロジェクトは決戦であり・・」との発言を聞いても違和感はないが、
「今度のプロジェクトは平和的に推進したい・・」との発言を聞いたら、どう思うであろうか。
「何を軟弱なことを言ってるんだ!」と、激の一つも飛ばしたくなるのではないか。

誤解を恐れずに言わせてもらえば、私は「平和」という言葉が好きでない。
どこかうそ臭くて、偽善にしか聞こえないのである。
ビジネス社会の中で生き抜いてきたせいもあるが、自分ではまず発言しない単語である。

もし、部下が「私は平和的に仕事がしたいです」と言ったら、「バカを言うな」とまでは言わなくても、
心の中で「こいつはダメなヤツだ」と烙印を押してしまうだろうと思う。

しかし、だからと言って、自分自身を特殊な好戦的な人間だとは思わない。
また、そのような発言をする人を好戦的な危険な人間とも思わない。

もちろん「戦争」という言葉も好きではないが、「平和」よりは使っていると思う。
どうして、「平和」という言葉が好きになれないのであろうか。
反対の意見の人がいたら、ぜひ意見を伺いたいと思う。

高校生の時に、トルストイの「戦争と平和」を読んだ。
読後の感想は「戦争と戦争」であった。
米ソで映画になった2作品は、両方とも鑑賞した。
大人になっていたので「愛情が平和のことなのか」と思ったが、「戦争」のシーンのほうがより鮮明で、戦争は人生そのものであるかのような印象を持ってしまった。

イメージとして、「戦争は平和より強し」なのではないか。
しかし、その思いを強く持ち続けることが「戦争を回避する」ことに繋がり、平和を声高に叫ぶほど「戦争の危険が増す」のではないか。
孫子の言う「戦が戦を止む」も同義ではないかと思う。