水商売からビジネスを学ぶ(その5)
2025.01.06
近所のショットバーのドアをおそるおそる開けた私の耳に、奥から「お~、よく来たな」と“例の”バーテンの声が聞こえた。
そして現れた彼は「お互い、店を開ける準備があるから、きょうはポイントだけな」と言った。
ホッとした私は、「よろしくお願いします」と頭を下げ、カウンターの前に座った。
バーテンは、さっそく何種類かの酒とシェーカー(ミックスする数種の酒を入れて振るための銀色の容器)、カクテルグラス、氷などを取り出し、私に聞いた。
「マティニー、作れるかな?」
「はい」とマティニーを作り出した私だったが、バーテンの鋭い視線に緊張して、氷を割るアイスピックを持つ手が震えた。
すかさず、彼の鋭い声が飛んだ。
「それじゃ、ダメだ。そんな割り方じゃ、自分の手を刺すぞ」
「ハイ」と緊張のあまり声が裏返った私に、今度は少し笑いながら「手を刺したらアカンのは、君がケガをするからじゃない」と言う。
怪訝な顔をした私に「手を刺して血が出たら、それが氷に付く。『水で洗えばいいだろう』と思うかね」
緊張で返事ができない私に向かって、彼は続けた。
「君は分かっているようだな。そうだよ、一度血が付いた氷で作ったカクテルをお客様に飲ませるわけにはいかんだろう。それはバーテンの常識であり、誇りなんだ」
そして、カクテルを水っぽくしない氷の割り方やシェーカーの振り方などを丁寧に指導してくれた。
さらに、使うお酒の性質、カクテル毎の酒の調合の仕方などを指導してくれた後、こう言った。
「この先も時間があったら、いつでも来いよ。もっと教えてあげるよ」
私は、他のアルバイトの時間を削り、翌日以降、何日もこのショットバーに通い、教えを受けた。
自分の店が潰れたら大学へ通えなくなるだけでなく、一家離散が現実になる。
私だけでなく、高校生、中学生の弟や妹たちの進学資金も稼がなくてはと必死だった。
いつしか「この商売、失敗したら・・」というマイナスの考えは消え、「成功させるしかない」という強い意思だけが私を支配していた。
私は、四六時中シェーカーを持ち歩き、授業中も机の下で振り続けた。
そんなある夜、この“先生バーテン”が、私の店に来てカクテルを注文した。
さすがに緊張してシェーカーを振り、カクテルグラスに注ぎ、先生バーテンの前に持っていった。
彼は「ここまでは合格だな。さて味は」とカクテルを口にした。
緊張で心臓がバクバクした私だったが、カクテルを口に含んだ先生バーテンは、こう言った。
「まあまあだが、カネを払う価値はある味だ。よく頑張った」
涙が出そうで下を向いた私の肩を軽く叩き、彼は、カウンターに代金を置いて店を出ていった。
ホステス兼バーテン助手として頑張っている彼女は、そんな私に「良かったね、チーフ。頑張った甲斐があったね」と言ってくれた。
こうした努力を続けたことで、店の収支は1ヶ月でトントンとなり、次の月からは利益を出し始めた。
つまり、このときの売上が「損益分岐点」であり、そこを超えると急激に利益が増えるという経営原則を実感したのであった。
私は、それまでも様々なアルバイトでお金を稼いできたが、それは“稼ぐ”というより“賃金の支払いを受ける”という受動的な稼ぎに過ぎず、商売とは言えなかった。
それに対し、商売は「自らの才覚と努力で稼ぐ」という能動的な稼ぎである。
私は、賃金を「もらう」ことと「稼ぐ」ことの違いを、このときに理解したのであった。
しかし、ホステスを使う接待商売は、高単価の収益をもたらす一方、人件費の高さと離職率の高さ、さらには様々なトラブルの発生という不安定さが付きまとう。
こうして、この商売は、ようやく収益軌道に乗り、私の一家を支えるだけの稼ぎをもたらしたが、他のお店と同様の問題が起きてきた。
次号は、そのことをお話ししましょう。