商品開発のおもしろさ(15):ワクチンの話(その2)

2021.09.15


モデルナ製ワクチンの一部に異物が混入していたことで、ワクチンの製造過程が初めて明らかになりました。
日本の製薬会社が委託を受けて製造していると思われていましたが、その元はスペインで製造していたということです。
政府がこのことを知っていたのかどうかは分かりませんが、仮に知らなかったとしたら問題ですし、知っていたのなら、黙っていたことが問題となるでしょう。
時間的制約があったにせよ、全工程を日本で製造できるようにしてこなかったツケともいえます。
 
こうした問題の根底には、以前にも言及しましたが、ワクチン接種による障害裁判での、国や製薬会社の敗訴の積み重ねがあります。
1992年、東京高裁は、義務接種制度について「法は予防接種を義務付けているが、予防接種の結果として重篤な副反応事故が生ずることを容認してはいないのであるから、ある特定個人に対し予防接種をすれば必ず重篤な副反応が生ずるという関係にある場合には当該個人に対して予防接種を強制することは本来許されない」とした判決を下しました。
上記判決文は回りくどくて分かりづらいのですが、要約すれば「予防接種は義務接種ではなく勧奨接種であり、義務規定は廃止、努力規定とするように」という判決です。
先進国で予防接種を、このように「努力義務」とした国は日本だけです。
この判決を受けて、メディアがワクチンに対する副反応をセンセーショナルに取り上げた結果、日本国民の意識でワクチンへの忌避反応が膨らんでしまったといえます。
 
今回問題となったモデルナ製ワクチン接種者から2名の死亡者が出ていますが、因果関係は明らかになっていません。
しかし、報道では「そうに決まっている」との決めつけが多く、大多数の国民はそう思ってしまっています。
日本の製薬会社がワクチンの研究開発に及び腰になってしまったのは、こうした国民性が背景にあるのは確かであり、根拠なき報道を繰り返すマスコミの責任は大きいといえます。
新型コロナ用ワクチンの早期供給にこぎつけた独のビオンテック社は、30年もの研究と治験、応用を繰り返し、それを米国政府が支援してきていたので、緊急供給が可能になったのです。
「一人の犠牲も出してはならない」とする精神は大事ですが、国民の大多数への接種となる今回のパンデミックでは、冷徹な確率の法則が作用し、一定数の死者が出ることは避けられません。
「危険を受け入れることなく解決できることなど無い」という冷たい現実を受け入れなくてはならないのです。