論理思考は大切だが、もっと大切なことがある(4)

2022.08.17

「倫理・社会」という授業がいつから始まったのか、調べてみました。
Wikipediaによると、高校では1963年から始まり、1982年に「倫理」という名称に変わったとありました。
すると、私は高校で「倫理・社会」を教わったはずですが、まったく記憶にありません。
当然、内容を理解する由もありません。
若い人に聞いてみると、授業では、なにやら“道徳的なこと”を教わったようですが、ほとんど記憶に残っていないようです。
どうも、教える先生側のほうが「倫理」を理解していないような印象を受けました。
 
そこで、学校の先生をしていた友人に聞いてみたところ、やはり授業内容の大半は道徳論のようでした。
となると、以前の「道徳」と内容に大差はなく、なぜ「倫理」としたのかがわかりません。
おそらく、字面が「倫理」のほうが“カッコよい”程度のことだったのでは、と皮肉に見ています。
 
前号で書いたように、「倫理」は、自分が決める自らの行動規範であり、外から強制されるべきものではありません。
一方、「道徳」は社会秩序を守るため、自分が所属する組織で決められた行動規範として、守ることが義務付けられた規則のようなものです。
この組織の最小単位が家族であり、大きな単位が地域であり、国家となるわけです。
法律には、公が制定する「道徳」の側面があります。
かつて存在した「尊属殺人の罪の重さ」などは、「親は子より上位にある」とする道徳論から来ていました。
道徳は、宗教の経典のように明文化し易いので、「論語」のように文書として現代に伝わっているものもあります。
それに対し、「倫理」は個人の内面に存在するものであり、明文化されるものではありません。
また、他人に宣言する必要もありません。
 
宗教は道徳の色合いが強く、信者が守るべき規範を制定していますが、宗教によって大きな違いがあります。
キリスト教は「~するな」とか「~せよ」というような道徳的規範が多い宗教のように思います。
その反対が仏教で、個人の行動より個人の心理の持ち方のような倫理的側面が強いように思います。
イスラム教は?
海外現場で接した経験しかありませんが、両方の要素が入り混じっているように感じました。
 
さて、ここまで「論理では割り切れない大切なことがある」を論じてきましたが、論理思考を否定しているわけではありません。
どのような問題であれ、まずは感情を排して“論理的”に解決への道を模索するべきです。
しかし、その道を絶対視しないで、割り切れずに残る“余り”にも目を向けていきたいものです。