靖国参拝を論ずる 第2回:特攻隊の暗部
2014.03.15
第1回に引き続いて「特攻隊」の話題ですが、今回は、特攻隊の暗部の話をしたいと思います。
特攻隊は、海や空に散った特攻隊員たちの悲劇が強調されるあまり、常に美談として取り上げられるきらいがあります。
百田尚樹氏の「永遠のゼロ」にもその傾向が見られ、批判を生む要因にもなっています。
しかし、美談の裏側には必ず「暗部」があります。
前号で書いた、海軍特攻隊の生き残りである私の伯父は、こんなことも言っていました。
「海軍特攻隊はまだいい。陸軍特攻隊の連中は本当にかわいそうだ」
私は、伯父の言葉の意味が分からず、いろいろ調べてみました。
そして、伯父の言葉の意味を知りました。
海軍特攻隊を指揮した大西瀧治郎中将は、終戦の翌日に自決しましたが、陸軍特攻隊を指揮した富永恭次中将、菅原道大中将は、終戦後も生き延び天寿を全うしました。
二人は、出撃する特攻隊員たちに「君らだけを行かせはしない。最後の一戦で本官も特攻する」と言いながら、最後には逃げました。
フィリピン第四航空軍司令官だった富永中将は、米軍がマニラに上陸すると、特攻するどこころか、部下を置き去りにして台湾に逃亡してしまいました。
逃亡に使った双発の爆撃機には、カネや酒、芸者まで乗せていたと言われています。
菅原中将は、終戦の日、部下から「閣下の特攻機を用意しました。私もお伴します」と言われて震え上がり、「これからの後始末のほうが大事」と逃げてしまいました。
伯父の語った言葉の意味は、こういうことだったのです。
しかし、海軍の司令官たちだって似たような者ばかりです。
自決したのは大西中将ただひとりです。
海軍軍令部総長だった及川古志郎大将は、部下に「特攻の目的は戦果ではない。
特攻の目的は死ぬ事だ」と公言し、特攻を推進しました。
人間魚雷「回天」に懸念を示した昭和天皇には、「必ず脱出装置を付けます」とウソをつき、大西中将の特攻隊編成を容認した時には、「命令でやってくれるなよ!」と、責任の全てを大西中将にかぶせたのです。
出撃基地で特攻を指揮した佐官級の中堅将校たちの中にもひどい人物が大勢いました。
故障で帰還した特攻隊員を「卑怯者、臆病者」と罵り、自決に追い込んだりもしています。
彼等もおしなべて、終戦後ものうのうと生き延びていました。
若くして散った特攻隊員たちのことを思うと涙が出てきますが、決して特攻隊を美談にしてはいけないのです。
特攻第1号としてレイテ沖に散った関行男大尉の母を、日本国民は「軍神の母」として祭り上げながら、戦後は、一転、「国賊」として石を投げつけたと聞きます。
軍神であろうと国賊であろうと、我が子を失った母の悲しみは変わらないのにです。
関大尉の母は、戦後の極貧の中を行商などで生き、さる中学校の用務員として雇われましたが、昭和28年、その用務員室で、57歳の生涯を一人で終えたということです。
このどこが美談なのでしょうか。