戦争と平和(その5):南京事件
2015.05.19
中国は、この事件を「大虐殺」と呼び、日本非難の中心に据えています。
その非難の中で、南京陥落後の1ヶ月半で日本軍によって30万人が殺されたと主張しています。
以前は“20万人”と言っていましたが、いつの間にか50%も増えたようです。
では、確証ある史実に基づき、出来る限り忠実に当時をなぞってみることにします。
少々長い文章になりますので、時間がある時にお読みください。
その非難の中で、南京陥落後の1ヶ月半で日本軍によって30万人が殺されたと主張しています。
以前は“20万人”と言っていましたが、いつの間にか50%も増えたようです。
では、確証ある史実に基づき、出来る限り忠実に当時をなぞってみることにします。
少々長い文章になりますので、時間がある時にお読みください。
当時の中国は、蒋介石率いる国民党が支配していたが、満州には支配が及んでいなかった。
満州は複数の軍閥が支配していたが 、その最大勢力は張作霖(ちょうさくりん)の勢力であった。
朝鮮を植民地にした日本は、次の戦略目標を満州に定めた。
その戦略の要点は単純である。
蒋介石による中国統一を支援し、その見返りに満州における権益を確保するというものである。
それは、中国における共産党の台頭を阻止し、ソ連の南下を抑えるという側面もあった。
関東軍の司令官、松井石根大将は、蒋介石との仲も良く、日本の戦略はうまくいくように見えた。
それを覆したのは、1928年6月に起きた「張作霖爆殺事件」である。
巡察に出た張作霖を、河本大作大佐率いる工作隊が列車爆破によって暗殺したのである。
直接実行犯は河本大佐だが、ソ連陰謀説などもあり、黒幕は未だに謎である。
だが、この爆殺によって、蒋介石は日本に不信感を抱き、日中関係は一気に緊縛状態となった。
この状態から判断すれば、爆殺の黒幕が関東軍とは考えにくい。
やがて日中両軍は、中国・満州の国境となっていた盧溝橋で対峙したが、夜中に響いた一発の銃声が引き金となり戦闘が開始された。
この銃声がどちらから撃たれたものか、今日に至るまで真相は明らかではない。
日中が戦争するよう中国共産党が仕掛けたという説もあるが、仮説の粋を出ない。
しかし、この事件を契機に関東軍は満州から中国へと侵攻し、またたく間に北京、上海を攻略した。
誰が仕掛けたにせよ、この侵攻は、明らかに「侵略」と呼べるものである。
当時の日本政府が「戦争不拡大方針」を出し、関東軍の侵攻を止めようとしたことでも、それは明らかである。
だが、関東軍は政府方針を無視し、侵攻は続けられ、ついに南京に迫った。
蒋介石はいち早く南京を脱出したが、南京の司令官まで逃げて中国守備隊は崩壊。
1937年12月、関東軍は南京に入城した。
ここで問題が生じた。
中国守備隊が戦時国際法に則って正式に降伏すれば、守備隊の中国兵は捕虜として、その身は安全であった。
だが、司令官まで逃亡し、正式な降伏もしなかったため、戦闘状態が続くことになってしまった。
仕方なく、南京に残った中国の残余兵は便衣兵となり、民衆に紛れた。
「便衣兵」とは、軍服を脱ぎ民間人の中に紛れた兵隊のことであり、当然のごとく武器を携行している。
便衣兵は捕虜ではないため、保護の対象にはならず、ゲリラ化した。
日本軍は便衣兵の掃討を行ったが、民間人との区別が難しく、一般市民にも犠牲が出た。
これは、戦後のベトナム戦争でも見られた現象で、一般市民に犠牲が出る一因である。
司令官、松井石根大将は東京裁判で死刑判決を受けたが、一般市民の虐殺の罪ではなく、その防止策や阻止を怠り、犯罪を犯した兵士の処罰をしなかったという罪である。
つまり、東京裁判でも「便衣兵の掃討」自体は正当な行為と認められたのである。
裁判では、松井司令官(つまり日本軍)が、一般市民の虐殺を命じたとはされなかった。
当時の南京の人口は約20万人、日本軍占領当時は、大きく減って10万人ぐらいと言われている。
たとえ、全員を虐殺したとしても10万人である。
しかも、多数の便衣兵が紛れており、一般市民の犠牲者の実数は不明としか言いようがない。
当時の南京には「国際租界」と呼ばれる地区があり、各国の大使館が設置されていた。
ここは治外法権なので、日本軍は一切の攻撃は行っていない。
その各国大使館が本国に打電した記録が残っているが、それによると、死者の数は6万人~50人とバラバラである。
しかも、直接目撃例はほとんどなく、伝聞ばかりである。
ちなみに、戦後米国が行った調査記録では「4万人」となっている。
戦後の報道で虐殺の証拠とされた写真も、加工されていたり他の場所のものであったりと捏造が多い。
その中に、南京大虐殺の象徴とされる逸話「百人斬り競争」がある。
南京攻略の最中、陸軍の野田毅少尉と向井敏明少尉のどちらが先に百人斬るかという競争をしたという記事である。
しかも、二人は百人では飽きたらず、百五十人斬り競争を始めたという荒唐無稽な話である。
実は、この記事は1937年11月から計4回にわたり、東京日日新聞(現・毎日新聞)に掲載された話である。
日本の新聞が嘘の発信源であることは、慰安婦の強制連行と同じ図式である。
しかし、中国はこの記事を最大限に活用した。
百人斬りの記事は、今でも残虐な日本軍の象徴として、中国の南京大虐殺記念館にパネル展示されている。
しかし、向井少尉は歩兵砲の小隊長、野田少尉は大隊長の副官という立場であり、前線で敵兵を切るなどとは無関係な役割である。
だいたい、日本刀で生身の人間を百人斬ることなど到底不可能である。
だが、戦後の1947年9月、向井少尉らは突如、中国当局に逮捕され、南京戦犯裁判において死刑判決が出て処刑された。
新聞のホラ話の犠牲者である。
朝日新聞の慰安婦報道同様、無責任メディアの責任は重い。