韓国の歴史を学ぶ(その5)
2018.01.05
前回書いたように、日清戦争の結果、朝鮮は独立国となりました。
本連載の第1回に書いた「独立門」は、この独立の記念に建てられたものですが、120年後の今、「日本からの独立記念」と誤解されたまま立っています。
今の韓国が、いかに歴史を学んでいないかがよく分かる事実です。
当時の日本は、日清戦争の結果、これで朝鮮が自力で国家発展の道を歩んでくれるものと期待しました。
しかし、ことはそう簡単ではありませんでした。
朝鮮は、独立はしても、当時の弱肉強食の国際社会を生き抜けるだけの力はありませんでした。
なにより、当の朝鮮自身が、真の独立が非現実的であることを分かっていました。
ゆえに、宗主国を、清に勝った日本に乗り換えるくらいのつもりだったと思われます。
しかし、予想もしなかったことが起きました。
日清講和条約締結のわずか6日後に、ロシアがドイツとフランスを巻き込んで「三国干渉」を起こしたのです。
日清戦争の勝利で日本が獲得した大陸における権益を強引に放棄させたのです。
ロシアは、特に、旅順港がある遼東半島にこだわっていました。
「三国干渉」の大義名分も「日本が遼東半島を所有すれば“極東平和の妨げになる”」というものです。
(いつの世も「平和」を全面に掲げる存在は信用できませんね)
しかも、そうした権益を日本から清に返させた後、彼らは、その権益を清から強引に奪いとったのです。
もう無茶苦茶です。
だが、現代の国際常識で考えるわけにはいきません。
この時代は帝国主義の時代です。「力こそ正義」が国際社会の常識だったのです。
三国に比べはるかに弱小国であった日本は、悔しくとも黙るしかありませんでした。
問題は朝鮮です。
真の独立国家を目指そうとした「進歩会」を中心とした勢力は、国名を大韓帝国と名を変え、日本と手を組む政策を志向しました。
しかし、李氏朝鮮の旧体制も残っており、彼らは露骨にロシアへの接近を図り、ロシアもどんどん干渉を深めてきました。
これに対し日本は、多大な犠牲を払って得た朝鮮の独立や日本の権益が失われることを座視することはできませんでした。
朝鮮が完全にロシアの手の内に落ちれば、日本は大国ロシアと国境を接することになります。
次には日本が狙われることは確実でした。
ロシアに対し圧倒的に軍事力の劣る日本は懸命に外交努力を重ねましたが、軍事力なき外交に活路はありませんでした。
当時のロシアは、世界一の陸軍国です。
東洋のちっぽけな島国のことなど歯牙にもかけず、交渉は全く進みません。
そんな中、李氏朝鮮の王である「高宗」はロシアに取り込まれ、鉱山の採掘権や森林の伐採権、果ては関税権などを、次々とロシアに売り渡していきます。
李氏朝鮮の勢力が残る中では大韓帝国の自立は難しいと考えた「進歩会」は日韓合邦を目指そうとしますが、これが後の日韓併合へとつながる動きとなるのです。
一方、1900年に清國で勃発した義和団事件に乗じて、ロシアは満州へ侵攻し、全土を占領下におきました。
日米英の抗議でロシアは撤兵を約束しましたが、約束を守らず、むしろ兵力を増強させる一方でした。
この事態を日本以上に憂慮したのが英国でしたが、欧州での戦争で財政が疲弊していた英国には遠い極東に干渉する力がありませんでした。
それで、日英同盟を結び、日本に対する軍事的支援を約束して日本を前面に立たせたのです。
日本は、山縣有朋を中心とした対露主戦派と伊藤博文を中心とした戦争回避派による論争の末、ついに、日英同盟をバックに対ロシア戦争を決心したのでした。
韓国の歴史なので日露戦争の話は横に置き、次回は日露戦争後の大韓帝国が日韓併合へと至っていく経緯を解説します。