近代史を闇の中から引き出すことで、中国の戦略が見えてくる(4)
2021.07.30
第1章でも述べましたが、この7月1日、中国は、共産党結党100周年を盛大(少々大げさなくらい)に盛り上げ、内外に習近平主席の存在を強く印象付けました。
その狙いは半ば達成されたといえますが、半ば裏目と出ています。
欧州各国は、一党というより習主席一人の独裁化が進む中国の危うさに、かつてのナチスドイツの影を見て一歩後ろに引き出しました。
とはいっても、全面的に米国の戦略に乗ることはできず、また中国市場という経済的なうまみを捨てることもできずに「ウイグルや香港での人権批判」だけでごまかしている状態です。
米国にしても中国との全面対決を避けたいのが本音ですから、次の一手には苦慮しているところです。
つまり中国を含めた全ての国が手詰まりなのです。
そうした中、なんで習近平は、あれほど派手な式典を行ったのか、毛沢東と同じ中山服(人民服ともいう)を着るという滑稽ともいえる演出をする必要があったのかを読み解くことが大事です。
中国共産党は、100年前の1921年7月に上海で旗揚げしましたが、当時の党員数はわずかに57名、結成大会の出席者は13名というさびしさでした。
そこにソ連からコミンテルン(国際共産主義同盟)の幹部2名が参加していました。
それから分かるように、この船出は、あくまでもコミンテルンの中国支部の立ち上げでした。
しかも、当時の中国は蒋介石率いる国民党の支配下にあり、共産党は鉱山や港湾での労働者のストライキを支援する程度の活動しかできていませんでした。
そこで、2年半後、ソ連の仲介で国共合作という連合を成立させました。
連合といっても、党員5万人の国民党に対し共産党はわずか500人でしたから、実体は吸収合併です。
実際、全員が共産党の党籍のまま国民党に入党しています。
こうした事態に不満を持つ者は多く、そのまま国民党に鞍替えする者、満州の関東軍と手をにぎる者などが出て組織は四分五裂状態になっていきます。
その中で過激派は労働運動を激化させていき、資本家とつながっていた蒋介石による大弾圧を受けることになります。
こうした過程にあって頭角を現してきたのが毛沢東です。
蒋介石による弾圧から逃れるために行った長征という過酷な逃避行を、多くの犠牲者を出しながらなんとか成功させたことで、毛沢東は今に至るまで建国の父として崇められています。
しかし、関東軍の一派とも手を結ぶなどの現実主義者でもありました。
盧溝橋事件の引き金になった闇夜の一発は関東軍によると言われていますが、共産党が仕組んだという説も根強く残っています。
私は別の見方をしていますが、その話は「どこかで・・」としておきます。
中国人民解放軍の空軍の基礎を築いたといわれる林弥一郎少佐など、戦後の国共内戦には関東軍将校も加わっていました。
生前の毛沢東は、こうした事実を隠すことなく旧日本軍将校たちへの感謝すら口にしていました。
もちろん、今の習近平政権は、そのようなことは口にしませんが、中国の反日の裏側は韓国とは違うということぐらいは認識しておいたほうが良いでしょう。
実は、日中戦争の前、英国は満州を国際連盟の5カ国(米英ソ中日)による共同統治の下に置くことを目論んでいました。
そのことを「日本が統治の幹事国になる」という条件で日本に打診していました。
当時の日本外務省はこの案に乗り気でしたが、78万人という大部隊に膨れ上がり、自信を深めていた関東軍の反対で拒否となってしまいました。
その是非はともかく、この目論見が成功していたら世界の歴史は大きく変わっていたかもしれません。
もっとも、歴史に「タラ・レバ」はありませんが・・