未熟な日本の計画技術(2)

2016.12.16

日本で「計画技術」が未熟なままで育たなかった原因を、前号では「どんなプロジェクトや工事にも起こる『計画と現実とのズレ』を現場が収めてしまい、表面化を防いでしまったことにある」と論じました。
最近のTV番組を観ていると、「天才的な職人芸の話」がよく紹介されます。
彼らの作り上げた手作り製品は、海外でも高い評価を得ており、本当にスゴイなと感心します。
また、そのように脚光を浴びる職人さんだけでなく、私が現場で出会った多くの職人さんたちも、素晴らしい技術の持ち主ばかりでした。
 
そうした技術を持つ職人さんたちは「日本の宝」とも呼ぶべき存在でした。
しかし、皮肉なことに、そのことが「計画技術」の進化を遅らせてしまった原因なのです。
計画が未熟でも、計画段階で失敗があっても、職人さんたちが何とかしてしまったのです。
規模が大きな工事現場であっても、職人さんや専門工事会社の人たちの努力で”なんとか”してしまったのです。
こうした結果、あらゆるプロジェクトにおいて、「計画の間違いはあり得ない」こととされ、間違いが浮上してしまった場合でも「現場がなんとか収める」が不文律のルールとなってきたのです。
 
私が担当した公共工事の現場で、重大な設計ミスが浮上したことがありました。
役所の担当官に相談に言った時、こう言われました。
「だから、おたくに発注してんじゃないの・・・」
つまり、「設計ミスの是正を含めた発注なんだ。それをアンタの会社は承知で受けたんだろう」というわけです。
公共工事ですから、設計は大手の設計事務所がやっていました。
私の所属していた会社は施工を請け負っただけで、設計に対する責任はありません。
でも、暗黙の了解で、「設計の責任を含めて受注した」ということになっていたのです。
 
もちろん、私も素人ではありませんし、業界の表も裏も熟知していました。
設計のミスを救うことは、いやになるほど行ってきました。
でも、その時の設計ミスはひどいもので、大幅なコストアップにつながるものでした。
さすがに黙っているわけにはいかず、相談に行ったのです。
なのに、“けんもほろろ”の対応でした。
 
どんな重大なことが起きても、すべての責任は受注者であるゼネコンにある。
このような不文律がある限り「計画技術」が進化することなどあり得ません。
そして、だから「日本の建築設計料は、異様に低い」のです。
それどころか、設計事務所不要論の声が大きくなってきている現実です。
建築設計界には、設計の価値と責任を明確に提示し、市場に納得させる努力が求められています。
設計は「価値ある大事な仕事」なのですから。
 
ところで、TV番組に映る「天才的な技術を持つ職人さんたち」ですが、働く工場や作業場があまりにも質素な(というより、貧しい)様子に胸が痛みます。
若い後継者が育たないのは当然で、やがて、これらの技術の大半は失われていく運命なのでしょうか。