水商売からビジネスを学ぶ(その2)

2024.10.02


さて、本項では、しばらく私の昔話にお付き合いください。
東京で一人頑張った父は、数年後、私たち母子3人を新潟から呼び寄せました。
鈍行列車で10時間、7歳の私はずっと列車の窓から外を眺めていました。
上野駅に着いた時には蒸気機関車の煙で顔は真っ黒、口の中は“煤(すす)”でじゃりじゃりでした。
それが今では新幹線で2時間を切りますから、隔世の感があります。
 
東京・世田谷で初めて親子が一緒に暮らすという小さな幸せが始まりました。
しかし、生活の苦しさはひとしおで、私は小学5年から氷配達の小さな地域を受け持ち、自転車に氷を積んで配達する毎日でした。
母は、東京で生まれた二人の妹の世話をしながら、店に買いに来るお客様に氷を切り売りしていました。しかし、冬場は氷が売れないので、炭を売ったり、石焼き芋を売ったりしていました。
私は、同級生たちから「おまえの母ちゃん、イモ売ってるじゃん」と、いじめられました。
あの時代は、「勤め人」は上級国民で、「商売人」は下級という「士農工商」の世界だったのです。
(今の若い方は「ウソだろう」と思うでしょうね)
 
でも、こうして一家で頑張ったおかげで、暮らしは少しずつ良くなっていきました。
しかし、もともと“山っ気”の強かった父の性格が頭をもたげ、「ここで勝負だ!」と、私が大学に入った年の暮れに突然、水商売を始めたのです。
しかし父は、もちろん水商売の経験など全く無い「元軍人」です。
悲しいかな、文字通りの典型的な「武士の商法」に陥りました。
 
そして、前回の話に戻るわけです。
父が始めた水商売が、開店3か月にして早くも行き詰ったところにです。
 
用意した運転資金は底をつき、父は「もうダメだ!」と頭を抱えるだけ。
私は、このままだと折角入った大学も辞めなくてはならないと考え、母に相談しました。
「僕とお袋の2人で店を立て直そうよ」
母は、もちろん水商売の経験はゼロでしたが、子育てと家事、そして父の商売の手伝いと、必死に頑張ってきました。
そうした母の諦めない性格は私以上でした。
しかし、母に何か策があるわけではなく「どうやって?」と私に聞きます。
私は、『とにかく情報を入手することだ』と、こう言いました。
「明日の夜から、僕は店に入り、皿洗いしながら店の様子を探るよ。お袋は、開店時と閉店時だけ店に行き、おカネの動きをチェックしてくれ。1週間もあれば、あの店のお客の内容、注文内容、酒の減り具合、従業員たちの動きと性格、経費の内容を把握できるよ。手を打つのはそれからだ」
 
時代を超えて、例外なしに言えることがあります。
絶体絶命の時こそ、自分自身の力量を図る絶好のチャンスだということです。
この時の私もそうでした。
もちろん、20歳になったばかりの若造でしたから、そんなことを意識できるはずはありません。
「とにかく、店の現実の情報を得たい」との意識だけでした。
 
水商売は、1日単位の超短期の世界が連続するビジネスです。
また、様々な人生、様々な欲望、そして意味のない慰めが交錯する世界です。
皿洗いしながらそうした店の様子を観察した私は、1週間でこの店の状況をほぼ把握しました。
そして、全員(といっても、6~7人)を集めて、こう宣言しました。
「あなたたち全員、辞めていただきます。あなたたちの行った不正はすべて記録しました。辞めないと言われるのであれば、この記録を警察に持っていきます」
 
みな、呆気にとられ声も出ません。
やがて、支配人が「そんなこと出来るのか」と凄みました。
私は、彼をまっすぐ見据えて「あなたは、店に来たご友人たちに、いつもただでお酒を飲ませていましたね。
僕は、お酒の減り具合を毎回チェックし、売上伝票と照合していました。これを警察に持っていっても良いのですよ」
薄ら笑いを浮かべたホステスの一人には「あなたは、お客のつけの回収金をご自分の財布に入れていましたね。その記録もあります」と、記録のコピーを突き付けました。
 
さて、この顛末はどうなったでしょうか。それは次号で。