台湾の歴史(その1)
2026.03.16
台湾は東京から飛行機で2時間半ぐらいの近場にあり、料金も往復で25,000円ぐらいというリーズナブルなこともあり、訪れた方も多いのではないでしょうか。
その台湾の領有権を中国が主張して、軍事侵攻すら否定していません。
しかし、共産中国が台湾を領有した事実はなく、現在の台湾は民主主義の独立国家だといえます。
もちろん、台湾国民が共産中国に併合されることを望むのであれば、反対する理由はありませんが、民主主義を享受している国民が共産党一党独裁の政治を望むことは、ほぼ無いといって良いでしょう。
では、歴史上、台湾が中国本土の政権の支配下に入ったことは無いのかというと、そうではありません。
中世の明の時代、そして近代の清の時代に版図に組み入れられたことがあります。
ただ、それを理由にしたら、現代の韓国も北朝鮮も中国のものとなってしまいますし、米国も英国のものだとなってしまいます。
国連に議席を持っているのは共産中国だからと言う意見もありますが、国連の議席を持たない独立国は他にもありますから、それも無理があります。
国家体制が水と油ぐらい違うのですから、現代の台湾は一つの独立国家だと呼ぶのが妥当ではと思います。
それで、台湾の歴史を少し調べてみました。
すでにご存じの方には、復習と思って読んでいただければと思います。
台湾は、中国において、古くから『東海にある島』として認識されていました。
ここで言う「東海」は東シナ海のことであり、韓国が日本海を「東海」と呼んでいることとは違い、歴史的な根拠があります。
この島(以降、台湾と呼びます)が中国の版図に編入されたのは、確実な記録では明朝の時代で16世紀ごろです。
しかし、当時の台湾は倭寇の根拠地の一つであり、明朝の支配下にあるとは言い難い状況でした。
そうしたこともあり、明朝から放置された状態でした。
17世紀に、オランダの東インド会社が勝手に台湾に進出しましたが、明朝政府は相変わらず放置したままでした。
「台湾(Taiwan)」という名称は、その頃誕生したと言われています。
17世紀の中頃、日本の歴史にも登場する鄭成功(てい せいこう)が台湾からオランダを駆逐し、政権らしきものを打ち立てました。
彼は日本の長崎・平戸の生まれで父は中国人でしたが、母は日本人でした。
つまり、日中の混血児だったわけですが、7歳で父の故郷の福建に移りました。
その頃の中国は、弱体化していた明が滅び、順という国が立っていましたが、北方の満州民族の清に攻められ、順はあっけなく滅んでしまいました。
ただし、中国は広大です。
福建がある南方では清の支配力は弱く、漢民族である明の末裔が亡命政権を作り清に抵抗を続けていました。
成人した鄭成功は、この明の亡命政権であった隆武帝に謁見し、国姓である「朱」を送られました。
しかし鄭成功は、自身の性にこだわり、その名前は使いませんでした。
それでも、彼は「国姓を賜った人」という意味で、巷からは「国姓爺」と呼ばれました。
江戸時代、近松門左衛門が書き人形浄瑠璃や歌舞伎の演題になった「国姓爺合戦(こくせんやかっせん)」は、この時代の鄭成功のことが描かれていて、現代まで上演されています。
つまり、彼は台湾のみならず現代の中国でも英雄として扱われているのです。
このように、彼は日本との関係も深い人物なのですが、続きは次号で。

