論理思考は大切だが、もっと大切なことがある(2)

2022.06.16

「ならぬことはならぬものです」の言葉から、ベストセラーとなった「国家の品格」の著者である藤原正彦氏の言葉を思い出しました。
こうした問答無用の言葉は古い価値観の押しつけではないかという反発に対し、藤原氏は以下のように説いています。
「本当に重要なことは、親や先生が幼いうちから押しつけないといけません。たいていの場合、説明など不要です。頭ごなしに押しつけてよい。もちろん子供は、反発したり、後になって別の新しい価値観を見出すかもしれません。それはそれでよい。初めに何かの基準を与えないと、子供としては動きがとれないのです。 野に咲くスミレが美しいということは論理で説明できない。モーツァルトが美しいということも論理では説明できない。しかし、それは現実に美しい。卑怯がいけない、ということすら論理では説明できない。要するに、重要なことの多くが、論理では説明できません。
戦後の我が国の学校では、論理的に説明できることだけを教えるようになりました。戦前、『天皇は現人神(あらひとがみ)』とか『鬼畜米英』とか、非論理的なことを教えすぎた反省からです。しかし反省しすぎた結果、もっとも大切なことがすっぽり欠落してしまったのです」
藤原氏は、決して「論理を軽視せよ」と言っているのではなく、論理に囚われることからくる硬直性がもたらす危うさを指摘しているのです。
 
細田衆院議長は、「100万円しか・・」の発言以上に、週刊誌に書かれた女性記者に対するセクハラ発言のほうが、今では注目の的になっています。
ご本人は真っ向から否定し、法的処置に訴えるとしていますが、先の発言の影響もあって旗色は悪そうです。
政界のこうした話は、昔から数多く語られてきました。
最近、映画界で次々と明るみに出ている性犯罪と同根で、権力を持つ人間と弱い立場の人間という構図は連綿と続く難題です。
こうした問題が浮上すると、権力を持つ側からは「事実無根」とか「でっち上げ」という声が必ず起きます。
報道番組などでは、法的には「推定無罪」なので加害者の罪は問えないとする“論理的”擁護論も見受けられます。
たしかに、論理的にはそのとおりなのですが、「ならぬことはならぬ」という気持ちからすると納得はできないでしょう。
 
ロシアによるウクライナ侵攻を論理的に論じると、「ウクライナだけでなく、ロシアにも正義がある」という意見も出てくるのが当然です。
現にそうした意見を述べる評論家やコメンテータもいます。
こうした論理思考で今回の戦争を論じていくと、「侵略されるほうも悪いところがある」とか「安全確保なのだから市民の強制連行は悪いとはいえない」、はては「破壊にも意味はある」など、いくらでも歪んだリクツをひねり出すことが出来てしまいます。
現に、ロシア側の発言は、押し並べて、このような理屈です。
 
しかし、私は、映画「ひまわり」で見た、あの「美しい世界」が破壊されている現状に思いが馳せると、深い悲しみが生じるのです。
この感情は論理では説明できません。
もっと深い意識の底にある非論理的な感情です。