新車陸送の世界(3)

2025.07.16


先輩は「運ぶ前の点検方法、分かるな、と言ってもな・・」と言葉を切ったまま、走り去ってしまいました。
『うん?』と思った私でしたが、すぐに何の道具もないことに気付きました。
そう、スパナ一本無い中での点検を行うしかないのです。
仕方ないので、運転席で「ライトは点灯するか」、「方向指示器は作動するか」などを確認した上で、ボンネットを開けて、キャブレターの水量とかオイルの量とか、思いつくことを確認しました。
最後にタイヤを思いっきり蹴飛ばしてボルトの緩みを確認しましたが、そんな程度で異常が分かるはずはありません。でも、他には思いつきません。
 
そうこうしている間に、仲間の車は次々に発進し、正門へと向かいます。
先ほどの先輩が、私の車の前でいったん止まり、「早くしろ、遅れるなよ」と怒鳴りながら走り去りました。
私は慌てて車に乗り込み、エンジンを掛け正門に向かって走り出しました。
正門で一旦停止すると、守衛の方が車の前後に取り付けた「仮ナンバー」を確認し、「行けっ」と合図しました。
陸送中の新車にはナンバープレートは付いていません。
斜めに赤い線が入った「仮ナンバープレート」を付けて公道を走るのですが、このナンバーは車ではなく、陸送員個人を表すナンバーなのです。
陸送員は、運ぶ車の前と後ろにそれぞれ、このプレートを取付け、目的地に着いたら取り外し、自分で保管し、次に運ぶ車に取り付けるのです。
たぶん、それは現代でも同じと思うので、街で見かけたら、そう思ってください。
 
座間工場の正門前の通りは「国道16号線」です。
時間は、すでに夜の10時を回っていましたので、交通量はかなり減っていました。
国道に出て間もなく交差点があり、信号が赤に変わりました。
私は、当然、停止線で止まりました。
その時、後ろから猛スピードで走ってきた陸送車が、停止する“そぶり”も見せず、そのまま赤信号を無視して私を追い抜きました。
そして、私の車にぶつかるように追い抜きざま、開け放った窓から大声で怒鳴りました。
「バカ野郎!」
 
信号が青に変わり急いで発進した私でしたが、赤信号で停車するたびに、当然のように次々に追い抜かれ、埠頭に着いた時は、他の車はとっくに到着していました。
工場で教えてくれた先輩とは別の先輩が車を降りた私に近づき、「バカ野郎、何で止まった」と大声で怒鳴りました。
私は「でも・・赤信号でした」と、びくつきながら答えました。
すると、その先輩は、ニヤッと笑いながら、こう言ったのです。
「そういうときはな、“ぐるっと”回りを見渡すんだよ。どこかに青信号が見えるだろう。だったら・・走っていいんだよ!」
 
ここで、注釈を加えます。
当時の交差点の信号は、現代のように、少しの間、両方向とも赤になることはなく、瞬時に赤・青が切り替わりました。だから、確かに赤信号の時は、交差する側の信号は青になります。
先輩はそのことを言ったのです。
でも、無茶苦茶な解釈で『とんでもない話』ですよね。
しかし、この言葉を聞いたときの私には「そんなアホな・・」ではなく、「なるほど、上手いこと言うな」という、妙に感心する気持ちが湧いたのです。
 
当時の私は19歳でした。
この年代の危なさは、現代でも、様々な常軌を逸した犯罪で証明されています。
あの当時の私も同様でした。
次の輸送から、私はすべての赤信号を無視して走っていました。
 
埠頭に到着した車は、前の車と10cm程度の間隔でギリギリに詰めて停めます。
左側も同程度にギリギリです。
運ぶ車両の車種もいろいろ変わるので、これは、結構な難しさです。
それでも、すぐに出来るようになりました。若さですね。
その後、全員がマイクロバスに乗って工場に戻り、次の輸送を行うのです。
こうして6回の輸送を終えた頃、東の空が明るんできました。
座間工場からの輸送は車種に関係なく、1台500円が我々の取り分でした。
つまり、一晩で3000円の稼ぎです。
これを30日やれば9万円になります。
チームで走るので、ベテランも新人もまったく同額の「真に公平な世界」です。
かつ、当時の大卒の初任給は2~2.5万円ぐらいでしたから、相当な稼ぎになります。
 
私は最初のひと月は30日フルで運びました。
社長は「よく頑張ったな」と、1万円上乗せして10万円を封筒に入れて渡してくれました。
現代だったら100万円相当の稼ぎを19歳の私は手にしたのでした。
こうして、私は、それまでは想像もできなかった世界に飛び込んだのでした。