新車陸送の世界(5)
2025.09.01
陸送員が埠頭まで運ぶ車は、工場の生産ラインから出てきたばかりの、“ほかほか”の湯気が出ているような新車です。
ですが、実はとんでもない代物なのです。
ラインから出されたばかりの新車は、最終検査を行っていません。
ゆえに陸送員は、ときに“とんでもない”車を運ぶ羽目に陥ります。
実際、走行中にタイヤが外れてひっくり返った車もありました。
運転していたドライバーは、死は免れましたが、重傷を負いました。
私も、片側のブレーキがまったく効かない車に当たったことがあります。
それでも、そのまま埠頭まで運転しなければなりません。
走行中にブレーキを踏むと、ブレーキが効くほうの車輪は減速しますが、反対の車輪の回転は止まらず回り続けます。だから、車はひっくり返りそうになります。
それで、ブレーキが効かない車輪の反対側にハンドルを思いっきり回すと同時にブレーキを踏み、ひっくり返るのを防止しながら走りました。
さすがに埠頭への到着は大きく遅れましたが、ブレーキが効かずに空転を続けた側のタイヤから白煙を上げている私の車を見て、「よく来たな!」という顔で誰も何も言いませんでした。
当然、事故は多発していましたが、大量の輸送量の中に埋もれてしまいます。
トップに君臨する大会社の人間以外、その全容を知る者はいません。
最末端の我々ドライバーは、半ば使い捨てのような存在でした。
事故はドライバーの運転ミスですべて片付けられていたと思います。
本牧埠頭の一角に、コンクリートのフレームだけの4階建ての大きな建物がありました。
開口部には扉もガラスもなく、そこから中に入ったことがあります。
中には、おびただしい数の事故車両が、ガラクタの“おもちゃ”の山のように積み上げられていました。
原型をとどめないくらいに壊れ、運転席に血のりがべっとり付いたままの車もありました。
一緒に入った先輩は「このドライバー、死んだろうな」と、ポツリとつぶやき、「オレたちも、いつこうなるか、分かんねえよな」と、私に話すでもなくつぶやきました。
そして、今度は私に向かって言いました。
「壊れた車は保険会社からカネが出るから親玉の会社に損害は出ねえ。でもな・・俺たちドライバーは生命保険に入れない。死んだら“それっきりよ”」
私が黙っていると、「お前は学生だろう。いいか、早いうちに足を洗え。間違ってもオレたちのように、こんな仕事なんかするんじゃねえぞ」と言いました。
その真剣な口調に、私は頷くだけでした。
たしかに、無造作に山と積まれた事故車両の光景に私は恐怖を覚えました。
原型もなく壊れた運転席のハンドルに付いた血のりの記憶は、今でも脳裏に焼き付いています。
しかし、私は大学の学費を、このバイトで賄っている身でした。
だから、辞めるわけにはいかず、卒業まで陸送の仕事は続けました。
ある時、走行中、ボンネットの中から異音がしました。
車を止めてボンネットを開けようとした瞬間、「シュ-」という音と同時に何かが私の頬をかすめました。
驚いて、手で頬を撫でたところ、手のひらに血のりが付きました。
「えっ」とびっくりして、ボンネットを開けたところ、オイルが噴き出しています。
慌ててエンジンを切って調べたところ、オイルゲージがなくなっていて、そこからオイルが噴き出していたのです。
つまり工場でのオイルゲージの取り付け方が悪く、運転中のエンジン振動でオイルゲージが回転するシャフトに接触したのでしょう。
それが異音発生の原因だと思われました。
そして、私がボンネットを開けようとした瞬間、回転しているシャフトの力でオイルゲージが弾き飛ばされたのです。
エンジンは毎分数千回転で回転します。
アイドリング状態でも800~1000回転/分で回転しています。
その勢いで弾き飛ばされたオイルゲージは、まるで弾丸です。
私の目に見えなかったのは当然です。
そして、そのゲージが頬をかすめただけで、私の顔を直撃しなかったのは奇跡です。
直撃されたら即死だったと思います。
オイルゲージは、私が開けようと手を掛けた鉄板製のボンネットに丸い穴を開け、どこに飛んでいったかは分かりませんでした。
工場のラインから出たばかりの新車は、このように、おそろしい代物なのです。