曲がり角の先の経済を考えてみよう(5):企業トップの責務

2023.01.16


不動産投資を「やってはいけない」投資と考えていた稲盛氏にとっては、「自ら働いて得る利益」を尊ぶという原理原則が商売の鉄則なのです。
知っておられる方もいらっしゃると思いますが、バブル絶頂期の頃、都市銀行の支店長が稲盛氏に「不動産が値上がりしています」「皆さん土地を買って転売してもうけておられます」などと不動産投資を持ちかけましたが、稲盛氏は無視したといいます。
 
バブルがはじけて、不動産投資に手を出した多くの経営者が手痛い目に遭ったわけですが、あるメディアが稲森氏にその先見性の理由を聞きに来たそうです。
その問いに対し、稲盛氏は「(自分に)先見性があったのではない」「ただ、私は浮利を追うのが好きではありません。それだけのことです」と答えたそうです。
浮利を否定することは稲森氏の信念であり、同意する人もいれば、「それは違う」という人もいて当然です。
良い悪いではなく、選択の問題です。
 
経済発展には根本的な問題がついて回ります。
発展の結果、過剰貯蓄が起き、それを原資とする過剰投資が起き、その後に非生産的な債務の拡大が続きます。
しかも、この3つは、たいした時間差なしに同時発生的に起こるため、3つ全部を同時に解決する必要が出てきます。
ここまで来ると、一企業の経営の範疇を超え、国家としての問題解決が必要なレベルになります。
稲森氏もそうですが、日本には名経営者として伝説的な名声を得た経営者が何人もいます。
しかし、その能力を国家経営にまで広げた方はほとんどいません。
松下幸之助氏は、松下政経塾を起こし、若い政治家の育成に私財を投じました。
その一期生には、民主党時代に首相になった野田氏や外相になった前原氏等がいますので、一定の政治的足跡を残した経営者と言えます。
しかし幸之助氏は「松下党の結成を」という塾生の願いに応じることはありませんでした。
関係者から聞いた話ですが、幸之助氏は、当時の塾生たちの力量では到底無理と思っていたようです。
民主党政権の無惨な顛末は、幸之助氏の見立てが間違いではなかったということになります。
 
民主主義国における政治と経営の決定的な違いは、政治は民主主義でも企業経営は独裁主義だということです。
口で「ウチは民主主義的な経営をしているよ」と仰る方はいますが、そんなわけはありません。
経営トップあるいは筆頭株主の権限は、社員一人とは比べようもありません。
京セラだって、稲森氏の独裁経営で発展したのです。
こうした稲森氏の経営の裏側の話は無数にあります。
幸之助氏だって同様です。
カリスマ経営者の経営は、言い方は悪いですが、一種の宗教経営です。
経営者も社員も生身の人間であるがゆえ、そこにしか真に折り合う点が作れないということなのです。
特に、創業は地獄の縁を回るに等しい危険な挑戦で壮絶な戦いを強いられます。
絶体絶命状態に追い込まれた時、心の中で「神よ!」と念じた創業者は多いと思います。
無神論者である私にも、そのような局面がありました。
創業者が、どこか宗教的になっていくのは必然といえます。
では、二代目、三代目、あるいは四代目はどのような経営を目指すべきなのでしょうか。
簡単ではありませんが、来年の連載で書いていこうと思います。