水商売からビジネスを学ぶ(その1)

2024.09.04


「水商売」と聞いて、“まさか”「本当に、水を売る商売」と思われている方はいないでしょうね。
これは冗談ですが、それでも不思議な言葉だと思いませんか。
 
Wikipediaには、以下のように書かれています。
「先の見通しが立ちにくく、世間の人気や嗜好に大きく依存し、収入が不確定な業種や職業、およびそうしたものに従事する人を指す日本の俗語である。なお、日雇い労働者、農家、漁師など、収入が安定しない理由が世間の人気や嗜好でない職業は、水商売に含まない。」
なんだか、分かったような分からない解説ですね。
 
他の解説を探したら、こんな説明もありました。
「水商売とは、飲食業や接客業などお客様の好みや人気で売上や収入が左右する不安定な仕事の総称です。不安定な様子を水に例えたことからきている言葉です・・・」
この説明のほうが分かりやすいですね。
つまり、“水”のように形が定まらない「不安定さ」が、水商売という言葉の語源なのですね。
 
こんなことを“くだくだ”と書いたのは、水商売が多くのビジネスの原点だと思うからです。
水商売は不安定極まりないビジネスです。
「小売業も不安定な商売だよ」と反論されそうですが、それでも「きょう売れなかった商品は、明日売ることができる」商売です。
しかし水商売は「今日」という日にちが商品であり、日が変わって明日になったら、もう売ることができないのです。
実態の乏しい「泡沫(うたかた)に浮かぶ“あぶく”」のような商売なのです。
 
本メルマガで前にも書きましたが、私の商売の原点はその水商売です。
それも、お客に高いお金でお酒を飲ませ、女性に接待させるという典型的な“あぶく銭”商売です。
それ故、法律上「風俗業」という“怪しい”レッテルを張られている商売です。
 
当時の私はエンジニアを目指す20歳の大学生でした。
そんな私が水商売をすることになったのは、父が始めた小規模な「酒と女性接待のクラブ」が、開店3か月にして早くも行き詰ったことが要因です。
父は、かなりの資金を投じ、ビルの地下の店を借り、内装を整え、酒類を仕入れ、銀座のクラブのバーテンを支配人に雇い、他のバーテンやホステスだけでなく、ボーイまで雇いました。
つまり、初期投資が大きすぎたわけです。
なぜ、そこまで無理をしたのか。
そこには、父の焦りがあったように思います。
 
ここで、父の話をさせてください。
戦前の父は陸軍士官学校を出た後、陸軍工科学校でさらに兵器技術を学んだ技術将校で、明るい未来が待っているはずでした。
しかし終戦の翌年、激戦地から生還した父を待っていたのは、GHQによる「公職追放令」でした。
公職だけでなくGHQを恐れた民間企業にも就職できずに郷里の農村に帰った父を待っていたのは、農地解放により農地を失った実家の困窮でした。
 
そこで、父は技術知識を生かして工場を起ち上げました。
仕事は順調だったようですが、一緒に工場を起ち上げた義理の父(つまり私の母方の祖父)を工場の事故で亡くすという事態に見舞われ、工場は負債を抱えたまま倒産。
失意の父は、母と幼い私、生まれたばかりの弟を父の実家に預け、ひとりで東京に出て行きました。
といっても、東京に働ける職場はなく、拾い集めた屑鉄で作った道具を売ったりして少しずつお金を貯めたそうです。
技術将校としての経験が役に立ったということですね。
 
やがて、父は小さな店を借りて氷屋、つまり氷の小売り販売業を始めました。
当時の氷屋は重労働で、“やくざ”か在日の人の商売で、普通の日本人が敬遠する商売でした。
実際、私が子供の頃、家に来る同業の人や使用人は、そんな人ばかりでした。
ある無口な使用人を住み込みで雇ったことがありますが、1ヶ月ぐらいで姿を消しました。
その後、警察がやってきて、彼が殺人を犯した逃亡犯だとわかりました。
別の使用人が“やくざ”とトラブルになったこともあります。
しかし、戦場で受けた銃創(撃たれた傷)が残る父には「実際の戦場の匂い」がこびり付いていたのでしょうか、“やくざ”も一目置く存在となり、いつしか地元の氷屋のリーダー格になっていきました。
長くなりますので、この続きは次号で。