新車陸送の世界(13)
2026.06.01
軽井沢へお金持ちのベンツを運ぶという“美味しい”仕事に「ラッキー!」と思った私でしたが、依頼主から頼まれた“とんでもない”お荷物には戸惑いました。
私の戸惑いをよそに、当のお荷物の女性は助手席で楽しそうです。
関越高速ができる前だったので、国道17号線をひたすら北上しました。
冬になるとスキー合宿で毎週のように通った、自分の庭のような道です。
普通なら、口笛を吹きながらリラックスして向かったはずです。
しかし、今回は違います。
『とにかく事故を起こさないよう、だけど早く着いて解放されたい』一心で、リラックスムードはゼロでした。
途中の休憩では、そんな私の心中を知ってか知らずか、くだんの女性はくったくなく私に話しかけ、飲み物を買ってくれました。
お礼を言った私に向かって彼女は「きみ、学生?」と聞いてきました。
「はい」と答えたところ、「運転上手ね。パパは運転下手なんだ。だから、いつも運転は私なんだ」と視線を虚空へ向けながら話す。
私が「では、なぜ今回は貴女が運転しないで、私の会社に依頼したのですか」と聞くと、「私がパパに頼んだの。たまには助手席でのんびり行きたかったの」と、くったくなく話し、突然「あなたは楽しい?」と、思いかけない問いを私に振ってきた。
戸惑った私が「仕事ですから・・」と、あいまいな返事を返すと、「真面目なんだ!」と、からかうような口調で言う。
ベンツは17号線から18号線に入り、碓氷峠に差し掛かった。
私は「揺れますから注意してください」と言って、つづら折りが続く坂道に入った。
さすがにベンツS600。単なる高級車ではなく、エンジンはもちろん足回りも最高レベル。
私は仕事であることも忘れ、運転に熱中した。
センターラインを越えてきた対向車を急ハンドルでかわした時も、車はまるで意識があるかのように私の意思に応え、軽やかに動く。
助手席の女性は、怖がるかと思いきや、嬉々として「すっご~い」と叫ぶ。
こっちは、逆に『すごいな』と半ば呆れたが、もちろん言葉には出さずに淡々と運転を続けた。
やがて、軽井沢の駅を左に見ながら、ベンツを旧軽井沢の別荘エリアへと続く道に乗り入れた。
さすが「旧軽」と呼ばれる高級別荘地は別世界。別荘エリアの中を進むと、ファンタジーの世界のような光景が続く。
私は、その静かなエリアの中をゆっくりと進み、預かった地図に書かれてあった別荘の前で停めた。
700~800坪はあろうかと思える敷地の一角に瀟洒な洋館があり、そこが目的地であった。
門は手で開いたので、車を乗り入れ、玄関に続くアプローチを女性の荷物を持ち召使のように上った。
預かったキーで玄関を開けると、目の前に映画のような広間の光景が広がった。
呆然と見とれている私の横をすり抜けた彼女は、二階へ続く螺旋階段を指さし、「悪いけど、上まで荷物を運んでくれる?」と言った。
私は、慌てて「はい」と言って、彼女の後について階段を上がり、指定された部屋に荷物を置いた。
一緒に階下に降りた私は、彼女に「申し訳ありませんが、タクシーを呼んでいただけますか」と頼んだ。
すると、彼女は「もう帰るの? パパが来るのは明日だから今晩は泊っていったら」と言う。
私はびっくりして「とんでもありません。タクシーをお願いします」と言うのが精いっぱいでした。
彼女は「呼ばないと言ったらどうする?」と、妙な声色で返してきた。
私は頭が変になりそうになり、「本日の輸送はこれで完了です。ありがとうございます」と言うなり、踵を返し、走って別荘を出て、そのまま振り返らず駅に向かって走り出した。
私は、別荘から軽井沢駅までの10km近い道をマラソンランナーのように走り抜けた。
駅前で息を整え、時刻表を調べ、切符を買って列車を待つ間、「オレは夢を見ていたのか」と思えるほど、先ほどまでのことの現実感が無くなってきた。
そして、「あの人、怒ってるかな、いや馬鹿にしてるだろうな」と思い、売店で買ったコーラを飲んだ。
駅から会社の社長に「無事、車は別荘に送り届けました。これから東京に戻ります。依頼主への報告は社長からお願いします」と電話報告した後、思わず、駅前のロータリーに視線を向けた。
もちろん、そこにベンツ600Sが来るはずはなく、私は「オレは何かを期待して視線を向けたのかな」と思うと、笑いが込み上げてきた。
この日のことは、それっきり忘れていたが、月末に受け取った給与明細書に書かれていた手書きの
「特別輸送代」に目が留まり「ウン?」と思って、あの日のことを思い出した。
今では、それも遠い昔の“青春の思い出”の1ページだったなと思うだけである。

